学究の徒のあるべき態度や精神

木村栄

きょう緯度変化のZ項を発見した天文学者 木村栄(きむら ひさし)の誕生日だ。
1870(明治3)年生誕〜1943(昭和18)年逝去(73歳)。

石川県石川郡泉野村(現 金沢市泉野町)に篠木(ささき)庄太郎の二男として生まれる。1871(明治4)年、木村民衛の養子となり、この養父に漢字、習字、そろばんを習った。1877(明治10)年、越田塾で算数、大島塾で漢文を学び、1878(明治11)年8歳の時には木村塾で先生として教えた。

1880(明治13)年、石川県金沢専門学校に入学、1887(明治20)年、第四高等中学校に入学、1889(明治22)年、第四高等中学校を卒業、東京帝国大学に入学。1892(明治25)年22歳で 東京帝大を卒業、星の研究のため大学院に入学、長岡半太郎博士に師事した。
木村は、東京帝大理学部星学科を卒業し、水沢緯度観測所長になるまでの間、全国各地の磁力測定、緯度観測、皆既日食等の観測に携わっているが、1897(明治30)年、恩師 田中館愛橘(あいきつ)と共に緯度観測所の選定のため水沢を訪れたのが水沢の地の縁(ゆかり)の始まりであった。
同年27歳で嶋倉真佐喜と結婚した。

1898(明治31)年28歳の時、万国測地学協会総会のためドイツに行った。翌1899(明治32)年 天頂儀を持ち帰り、水沢で観測を始めた。「水沢緯度観測所」の初代所長に就任したのは、1899(明治32)年10月29歳の時だった。その頃庁舎は建設中だったため、日高小路の安倍泰三宅の表座敷を借りて役所とし、翌年3月から新庁舎で仕事にあたった。

1891(明治24)年「美濃、尾張の大地震」があった。観測所長になった木村は本格的にこれと取り組み、観測の結果をポツダムの中央局に送っていたが、1900(明治33)年5月までの水沢の観測結果は、50点という劣等な得点であった。

木村は、これには何か手落ちがありはしないかと考え、原因を追求したがなかなか解決できなかった。木村は、日夜の研究の疲れをいやすため、時折テニスを楽んだが、ある時テニスのあと部屋に帰り、日頃気にかかっていた観測結果を吟味していたところ、ふと大きな暗示が頭にひらめいた。

当時の天文学会では北極・南極の位置変化だけが各地の緯度を変化させると考えられていたが、極変動とは関係のない1年周期の変動成分があることに気づいた。極の座標XとYのほかに変化をおこす要因を「Z」で表わした。これが「Z項」発見の糸口であり、この成果を1902(明治35)年1月32歳の時に論文を発表、広く世界から認められ、世界の専門家達から驚嘆と賛辞をもって受け入れられた。

その後中央局が世界6カ所の観測結果に点数をつけたところ、「水沢 130点」、ユカイア(アメリカ)104点、ゲザースパーグ(アメリカ)92点、シンシナチ(アメリカ)82点、カルロフォルテ(フランス)79点、チャルヂュイ(ロシア)65点で、水沢は抜群の成果を挙げた。
最初にもらった「水沢の50点」は、誠に良き贈りものであった。

1904(明治37)年34歳の時、理学博士となった。その後、国際観測中央局は水沢に移った。それらの功が賞されて、1911(明治44)年には第一回学士院恩賜賞を受章した。1920(大正9)年50歳の時 国際観測中央局緯度観測所長も兼任した。1922(大正11)年には万国緯度観測事業中央局長も兼任した。

1925(大正14)年 帝国学士院会員になった。1936(昭和11)年 英国王立天文学会から東洋人として初めてのゴールドメダル(天文学のノーべル賞といわれる)を授与された。同年、朝日新聞賞受賞、アメリ天文学会名誉会員となった。

1937(昭和12)年67歳の時に第一回文化勲章を受賞した。1941(昭和16)年71歳で 緯度観測所長を辞任。 1943(昭和18)年9月26日、東京世田ヶ谷の自宅で他界した。木村は世界的に高名な天文学者とし、緯度観測上不朽の業績をのこした。1970(昭和45)年 国際天文学連合により人工衛星で見付かった月面裏側のクレータの一つを「キムラ」と命名した。

この世界的な学者が水沢に在住すること40年。テニスや卓球、また宝生流謡曲を普及したばかりでなく、学究の徒のあるべき態度や精神を、ここ水沢に遺した足跡は誠に大きい。「千山」と号して書も良くし、今、所々に残る染筆にもその人格をうかがうことが出来る。

「Z項」の正体がわかったのは、木村が逝去してから20年以上たってからのことである。すなわち1970(昭和45)年、地球内部の流体核が原因であることがつきとめられた。1970年代以降、レーザー測距、VLBI(超長基線電波干渉計)、GPS全地球測位システム)などが世界の観測施設に導入され、測定精度は飛躍的に向上した。

木村栄は、観測結果が中央局に評価されなかったことに疑問を持ち、その解決方法として「Z項」を発見した。普通なら、測り方が悪かったのだとか、中央局の評価の仕方が悪いのだ、と他人のせいにするところであるが、彼は自分の計測には自信を持っていたが、何か他の要因があるのではないかと考えた。

企業においても、人事評価や業績評価など、評価が悪い時は他人のせいにしてしまいがちであるが、自分の仕事内容を見直し、何か不備があるのではないだろうかと考えてみることだ。
他人のせいにしているうちは、自分の仕事も中途半端なことが多い。


木村栄のことば
  「模倣を戒め、創造を昂めよ」


         ワンシャフ天頂儀