事業の将来に確かな自信

光永星郎

きょうは明治時代に電通を創業した 光永星郎(みつなが ほしお、幼名:喜一)の誕生日だ。
1866(慶応2)年生誕〜1945(昭和20)年逝去(78歳)。

熊本県八代郡野津村(現 八代市竜北町)宇西野津佐渡丸に戸主 雄喜・母 ワキの長男として生まれた。学令に達すると同時に、宮原町の寺子屋に通い始め、野津小学校(後の東光寺小学校)、ついで漢字塾「菁莪堂(せいがどう)」から熊本に出て、共立学舎、陸軍士官学校の予備門育雄校、さらに東京に出て、予備門有斐校に学んだ。

1889(明治22)年23歳の時、新聞記者となり、日清戦争では特派員として従軍した。この経験から正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を思い立った。
しかし、通信業単独では採算がとれそうもない。光永はまず通信業のための経営基盤を確立しようと、1901(明治34)年7月1日34歳の時、新聞社に広告を取り次ぐ「日本広告株式会社」を創立した。
さらに、四ヶ月後に個人経営の「電報通信社」を設立した。

東京市京橋区弥左衛門町に、間口二間、奥行き三間の小さな二階家の1階で、社員7名の小さな会社が産声をあげた。6畳と2畳のわずかふた間からスタートしたこの会社が世界一の広告会社になろうとは、まだ誰も知る由もなかった。

当時、東京だけでも約40社に達していた広告代理業の世界に乗り出したものの、光永の初期の苦労は並大抵のものではなかった。日本広告が大手業者に立ち向かうためには、特別な戦略・戦術が必要であった。当時の広告取引は、非合理不透明との批判を受けていた。そこで光永は3項目の基本戦略を掲げた。

第1が「利率の低廉」、手数料を他社より安くする。第2は「取引の公明」化、談合入札を拒否するなど広告取引の透明化を図る。第3は「設備の完全」化で、広告主への支援サービスを充実させる。それまでの広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。

また、当時の通信社は、ほとんどが政党や政治家の機関的通信社であったが、光永が目指したのは、不偏不党で正確迅速なサービスを行う通信社であった。こうした特色は信頼を高め、契約新聞社も急増、電報通信社の業績は急成長を遂げた。

こうして、日本広告と電報通信社の経営は日露戦争の勝利と共に軌道に乗った。1906(明治39)年12月40歳の時、電報通信社を改組し、「株式会社日本電報通信社(現 電通)」を設立。
翌1907(明治40)年5月、米国の大通信社UPと通信交換の契約を結んだ。

光永事業の将来に確かな自信を感じ、1907(明治40)年8月、日本電報通信社と日本広告を合併し、新しい「株式会社日本電報通信社」として発足させた。
1914(大正3)年7月28日、第1次世界大戦が勃発した。この大戦報道で電通は顕著な成果をあげ、通信社 電通の声価を一挙に高めた。

また日本は未曾有の好景気となり、広告の主力媒体である新聞の発行部数も増大して、電通の営業成績は急上昇をたどっていった。
1922(大正11)年までに国内外に30の支局を設置、社員数も300人を越え、通信業務においてはロイター等の世界通信社に対抗した。

しかし、順風満帆であった電通に一大転機が訪れた。1931(昭和6)年に満州事変が起こると、政府は日本の情報通信機関を一元化し国家的通信社を作る必要があるとして、当時電通とライバル関係にあった通信社「日本新聞聯合社」と電通の統合方針を決定した。

光永は強く難色を示したが、1935(昭和10)年5月、統合推進派は創立準備委員会を開いて新社名を「同盟通信社」と決め、11月、逓信大臣は社団法人としての設立を許可した。光永にもはや選択の余地はなかった。
1936(昭和11)年6月1日69歳の時、電通通信部門は同盟通信社に合流し、この日から、電通は広告代理業専業となって新発足した。

新生電通がスタートした翌年の1937(昭和12)年、日中戦争が勃発し、広告活動の存立基盤である自由な商品経済は急速に圧縮され、広告は「冬の時代」に入った。さらに太平洋戦争が始まると経済統制は一段と強化され、商品経済は窒息状態に陥り、広告の存立基盤そのものが崩壊した。

そして1942(昭和17)年76歳の時には商工省の指導で全国の広告代理業の整備統合が実施された。その結果、186社を数えた広告代理業社が東京6社、大阪4社、名古屋1社、九州1社の計12社に統合されたが、電通は4地区すべてに営業拠点を確保することができた。

この整備統合にあたって、当時電通常務取締役であった吉田秀雄が、商工省の求めに応じてプランナーとして大きな役割を果たした。
1944(昭和19)年78歳の時、商工省は戦時下の用紙割当基準算定から明らかになった各新聞の発行部数を基にした、メートル制(1cm当たりの単価)による新料金を適正単価として認可した。

同時に広告代理業の手数料についても15%と決定し、以後、広告代理業の手数料は15%を基準に展開されていった。
光永は1945(昭和20)年敗戦直前の2月20日、78歳でこの世を去った。

光永星郎は、新聞記者として戦地へ飛び込み取材をした経験から、通信と広告の事業を思い立ち起業するが、政府の方針で広告だけにされてしまう。
もし通信と広告の両方をしていたら世界一の企業になっていたかもしれない。発想したのが明治時代だというから驚いてしまう。

企業においても、今後50年、100年先を見て事業を方向づけできればすばらしいことだ。いくら先が見えない時代だといっても、せめて10年先を見ようとする努力をしなければいけない。


光永星郎の本小説電通
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