希望の大世界を進み抜く

棟方志功

きょうは大正・昭和の「板画家」 棟方志功(むなかた しこう)の誕生日だ。
1903(明治36)年生誕〜1975(昭和50)年逝去(72歳)。

青森市で代々鍛冶職を営んできた父 棟方幸吉・母 さだの三男(9男6女)として生まれる。幼い頃から弱視だったが、周囲から「絵馬鹿」と呼ばれるほど絵を描くのがとても好きな子供だった。1910(明治43)年4月に長嶋尋常小学校に入学、3年生の頃から凧絵に興味を持ち、級友に描いていた。

6年生の頃、田んぼに不時着した飛行機を見にみんなと走っていたところ、小川の所で転び、そばに白い花(「おもだか」という水草)を見つけて、その美しさにひどく感激した。
小学校を卒業する頃から兄と一緒に実家の手伝いをしていたが、17歳の時に裁判所の弁護士控所に給仕として雇われ、仕事のない日や、早朝に近くの合浦公園に出かけて写生をし、絵の勉強をした。小野忠明先生から、ゴッホのヒマワリの複製をいただき、深い感銘をうけたのもその頃だった。

また、鷹山宇一(たかやま ういち)ら絵の仲間と洋画団体「青光画社」を作り、展覧会を開き、後に東奥日報社の編集長になった竹内俊吉(元 青森県知事)から高い評価を受けたこともあって、「絵かき」になる決意を一層堅くした。

1924(大正13)年21歳の時、志を立てて上京、帝展に出品し続けるが、落選ばかりだった。食べるために、靴直しや納豆売り、教材出版社の画工など苦労しながら絵の勉強を続けた。上京して5年目の1928(昭和3)年10月、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、見事入選することができた。

「雑園」の入選する前から、版画に心をひかれていたが、1926(大正15)年23歳の時、川上澄生の「初夏の風」という版画を見て感激、同郷の下沢木鉢郎に連れられて平塚運一を訪れ、版画誌「版」の同人となり、初めて版画の道に入った。
1928(昭和3)年、第8回日本創作版画協会展に入選した。

また、1929(昭和4)年26歳の時、春陽会に版画4点が入選し、翌1930(昭和5)年には、国画会に出品した版画4点が全部入選した。この年、赤城チヤと結婚したが、経済的困難から奥さんは青森に置いたまま東京での単身生活が続いた。奥さんを東京に呼び寄せることができたのは4年後のことだった。

この頃から「版画」一筋に行くことを決心した。1936(昭和11)年4月に、国画会に「大和し美し」(版画巻)を出品して日本民芸館に買上げられ、柳宗悦河井寛次郎浜田庄司民芸運動の指導者の知遇を受けるようになった。

棟方は、一ヶ月ほど河井宅に滞在、経典の講義を受けた。そこから1940(昭和15)年の有名な「二菩薩釈迦十大弟子」へつながり、後に1962(昭和37)年59歳の時には日石寺から法眼位を受けた。日石寺のある富山には1945(昭和20)年42歳の時、戦火を避けて疎開し、1951(昭和26)年まで滞在した。東京の自宅の方は5月に空襲を受けて大量の版木を失った。

棟方は、1942(昭和17)年頃の作品から「木版画」を「板画」という字で、「肉筆画」を「倭絵」と表現した。
戦後最初の作品は1946(昭和21)年43歳の時の第2回日展に出品された24枚連作の「鐘渓頌」。棟方の魅力ともいえる丸くふくよかな顔と同じく丸くデザイン的ともいえる乳房、そして素朴で力強いタッチの棟方板画の真髄が見られる。

大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、ベートーベンの「第九」を歌いながら板画を彫った。このころ眼病が悪化し、失明後も制作を続けられるように目隠しで版画制作を試みている。ひたむきさと奔放無頼な造形で、 版画制作に情熱を捧げ続けた。

1950(昭和25)年代以降の棟方は、押しも押されぬ超一流の画家としてその地位を確固たるものとした。受賞した賞は枚挙のいとまもなく、国内および海外で開かれた展覧会も大きな評判となった。

1952(昭和27)年4月48歳の時、スイスのルガーノで開かれた第2回国際版画展で優秀賞を受賞し、1955(昭和30)年7月、サンパウロビエンナーレに「釈迦十大弟子」などを出品し、版画部門の最高賞を受賞した。

また、1956(昭和31)年6月、ベニス・ビエンナーレに「柳緑花紅頌」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞し、世界の棟方としての地歩を築いた。1959(昭和34)年56歳の時には外遊し、アメリカの諸都市の大学で講演をしたり、ヨーロッパにも行ってゴッホの墓を訪ねたりした。

1960(昭和35)年57歳の時、日展評議委員となった。青森市では、1969(昭和44)年2月17日、青森市名誉市民第1号の称号を贈った。1970(昭和45)年11月には青森県人としてはじめて文化勲章を受章した。

そんな中で晩年2度に渡る大旅行をした。69歳の時に草野心平とともにインドを旅行、更には70歳の時は奥の細道の蹟をたどっている。晩年も精力的に制作を続けたが、1974(昭和49)年アメリカ・カナダの講演旅行中に倒れ、帰国後入院した。翌年4月退院して東京の自宅で療養を続けたが、9月13日帰らぬ人となった。

棟方は、仏教思想や縄文文化を取り込んだ、独創的でエネルギーに溢れた独特の作品を残したが、版画のほかに、油絵、倭画、書、詩歌などに多くの傑作を残し、20世紀の美術を代表する世界的巨匠である。また、著書類も多く、「棟方志功板画大柵」「板極道」「わだばゴッホになる」など数十冊にのぼっている。

棟方の郷土を愛する心は人一倍強く、凧絵やねぶたは勿論のこと、風物に対しても大変心をよせた。青森市の合浦公園には、少年達を励ますために「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」という言葉を刻んだ石碑が建てられている。

また、青森市松原に、志功の私費によって建てられた「棟方志功記念館」(校倉造)がある。 倉敷市大原美術館内に「棟方板画館」、鎌倉市鎌倉山のアトリエ跡に「棟方板画館」がある。

棟方志功は、板画にしても絵や書にしても、いわゆる粗削りのような感じだが、全体的に整っているのはバランス感覚に優れているのだろう。作品中の人の顔は無表情のようだが、何かしら語りかけてくるような感じを受ける。仏教思想が入っているようだが、宗教を超えほっとするようなやさしさがある。

企業においても、バランス感覚は非常に大切な要素だが、数字や言葉では表現しにくい要素である。これはすべてが同一で平均的という意味ではなく、プラス・マイナス、強・弱、濃・淡、長・短などが、お互いに助け合いカバーし合っているということだ。営業と製造、ベテランと新人などでも同様だ。


棟方志功の作品
   
  倭桜の柵           躍鯉図            はまなす妃図


棟方志功の本
  棟方志功―わだばゴッホになる (人間の記録 (13))
  歌々板画巻 (中公文庫)
  板極道 (中公文庫)
  棟方志功の世界―柳は緑、花は紅 (講談社カルチャーブックス)
  棟方志功 (新潮日本美術文庫)
棟方志功 (新潮日本美術文庫)棟方志功の世界―柳は緑、花は紅 (講談社カルチャーブックス)歌々板画巻 (中公文庫)棟方志功―わだばゴッホになる (人間の記録 (13))