自由と反逆と人民的精神の

小熊秀雄

きょうは流浪の文学者で「働く詩人」 小熊秀雄おぐま ひでお)の誕生日だ。
1901(明治34)年生誕〜1940(昭和15)年逝去(39歳)。

北海道小樽市に父 三木清次郎・母 小熊マツの子として生まれる。マツが未入籍のため、出生届は出されなかった。1904(明治37)年10月、母 マツが亡くなり戸主となった。12月26日、小熊マツの私生子として入籍された。

父 清次郎は新たにナカを後妻として迎えた。のち、父母とともに北海道稚内へ移住、さらに樺太へ移住した。1912(明治45)年11歳の時、秋田県に住む伯母のもとに1〜2年間引き取られ、養育を受けた。
1916(大正5)年、樺太泊居(トマリオロ)の高等小学校を15歳で卒業した。卒業後、漁師の手伝い、養鶏場の番人、炭焼きの手伝い、呉服屋の行商人などの職業を転々とした。1921(大正10)年20歳の時、徴兵検査をきっかけに小熊マツの私生子であることを知り、以後、三木姓を捨てて小熊姓を名乗るようになった。

1922(大正11)年、「北海道旭川新聞社」に見習記者として入社。文才を認められ、社会部の記者となった。1925(大正14)年2月23歳の時、旭川市の崎本富三郎の三女 崎本ツネコと結婚した。4月に夫人とともに上京するが、7月旭川に戻った。上京中に雑誌『愛国婦人』に童話を発表した。

1926(大正15)年1月24歳の時、長男 焔が生まれた。1927(昭和2)年26歳の時、旭川新聞の文芸欄の担当となり、詩や童話などを連載した。

1928(昭和3)年27歳の時、旭川新聞社を退職し、妻子をともなってふたたび上京、間借り生活を始めた。雑誌社や業界新聞で働き、生活の糧を得ながら、雑誌『民謡詩人』に作品を発表するようになった。
1929(昭和4)年28歳の時、都内長崎町(現 豊島区長崎2丁目)に転居。晩年まで続く長崎、池袋界隈の暮らしが始まった。

1930(昭和5)年29歳の時、「プロレタリア詩人会」に加わり、雑誌『プロレタリア詩』10月号に「スパイは幾万ありとても」を発表。1932(昭和7)年31歳の時、プロレタリア詩人会が「日本プロレタリア作家同盟(ナップ)」へと発展的解消し、これにともなってナップに参加した。

1933(昭和8)年32歳の時、ナップ末期の詩集『戦列』に「母親は息子の手を」を発表。秋、新井徹、遠地輝武らと同人詩誌『詩精神』の創刊準備を開始。1934(昭和9)年2月32歳の時、『詩精神』創刊号に「馬上の詩」を発表した。

続いて、「ゴールド・ラッシュ」(4月号)「瑞々しい目をもって」(6月号)「しゃべり捲くれ」(9月号)「乳しぼりの歌」(10月号)などの作品を次々に同誌上で発表。
また、『現実』に「綱渡りの現実」を、『文芸』に「移民通信」を、『一九三四年詩集』に「プラムバゴ中隊」を発表するなど、精力的に活動した。

この頃「池袋モンパルナス」の住人の1人である洋画家 寺田政明との交友が始まり、デッサンの手ほどきを受けた。(「池袋モンパルナス」については宇佐美承による同題のノンフィクションに詳しい)

芸術は仲間のいる住空間から。そういう場所に小熊は偶発的に身を寄せた。それは、鯱(しゃちほこ)張った教条主義者や覇気のない生活者がいない、面白い連中のいる住空間を求めた結果だった。「池袋モンパルナス」、そこには集住体の未来のヒントがあった。

1935(昭和10)年5月33歳の時、『小熊秀雄詩集』を耕進社から、6月には長編叙事詩集『飛ぶ橇』を前奏社から刊行。自ら「しゃべり捲くれ」と吠える詩人は「生涯中に身の丈ほどの詩集」を積み重ねるという目標に従って精力的な創作を続けた。

「ヴォルガ河のために」(『詩精神』5月号)「私と風との道づれの歌」(『詩精神』7月号)などの諸作を次々に発表した。11月、詩人と漫画家による諷刺誌『太鼓』の同人となった。

1936(昭和11)年35歳の時、「しゃべり捲くれ」をきっかけに新定型詩を標榜する北川冬彦らと対立。奔放な詩風が詩壇に影響をもつようになった。この年、「パドマ」(『詩人』2月号)「シャリアピン」(『詩人』3月号)「馬車の出発の歌」(『詩人』8月号)などを発表。また、「文壇諷刺詩」を読売新聞に連載した。

この他、「日比谷附近」や短編小説を『中央公論』に発表するなど旺盛な活動が続いたが、10月、創作の拠点の1つであった『詩人』が廃刊となった。

1937(昭和12)年7月35歳の時、日華事変勃発と相前後して左翼系の文学誌が壊滅状態となり、発表の場が急速に狭まった。
帝大新聞、三田新聞、都新聞などに文芸時評、文化時評を発表。この年、池袋の喫茶店でデッサンの個展を開いた。

1938(昭和13)年37歳の頃から喀血が始まり、咳と痰に悩まされるようになった。雑誌『詩と美術』に詩とともに展覧会評を書くようになり、美術批評の分野にも進出した。1939(昭和14)年38歳の時、雑誌『塊』に参加し、長編詩「託児所をつくれ」(5月号)、「諷刺大学生」(8月号)などを同誌に発表した。

この頃、湯浅芳子と共同でプーシキンの詩の翻訳を完成させているが、原稿は散逸。1940(昭和15)年39誌の時、活動の中心を雑誌『現代文学』に移し、「偶成詩集」(1月号)「逍遥詩集」(3月号)「流民詩集」(4月号)「通信詩集」(6月号)など多数の作品を発表した。

結核に冒されながらも詩作、批評、絵画制作に集中、火宅の人となりながら、11月20日朝5時、東京都豊島区のアパート東荘の自室で亡くなった。
なお、没後7年を経過した1947(昭和22)年、生前すでにまとめられていた『流民詩集』が三一書房から刊行された。

小熊は、「働く詩人」を自称する流浪の文学者で、書斎派の詩人たちにはない奔放で大胆かつエネルギーあふれる作品を数多く残した。短歌、小説、童話、評論、さらにはデッサンやスケッチにも印象的な作品がある。

小熊秀雄は、1931年(昭和6年)プロレタリア作家同盟員となるが、1934年に作家同盟が解散してからの文学界の右傾化し始めた時期。それまで勇ましかった「左翼」詩人が沈黙しはじめた時に、彼は大胆に自由と反逆と人民的精神の活気とを歌った。長編叙事詩や風刺的な詩にも独自の展開をみせた。

企業において、流れに逆らった行動をするには相当の勇気と実力が必要になるが、大きな流れが正しいとは限らず、信念をもって自分の道を進むことも必要な場合もある。ただし、いつもそのような態度では、全く無視され受け入れられなくなりやがて枯死してしまう。


小熊秀雄の作品
  ここに理想の煉瓦を積み
  ここに自由のせきを切り
  ここに生命の畦をつくる
  つかれて寝汗掻くまでに
  夢の中でも耕やさん
   (遺稿「無題」の一節)


小熊秀雄の本池袋モンパルナス小熊秀雄詩集
  焼かれた魚
  小熊秀雄詩集
  小熊秀雄童話集
  小熊秀雄 (Century books―人と作品)
  小熊秀雄とその時代
  池袋モンパルナス