コロンブスのタマゴ的発想

池田菊苗

きょうは「味の素」の素を創った 池田菊苗(いけだ きくなえ、幼名:完二郎)の誕生日だ。
1864(元治元)年生誕〜1936(昭和7)年逝去(71歳)。

京都市に池田春苗の次男として生まれる。1889(明治22)年24歳で東京帝国大学理科大学化学科を卒業、大学院に入った。東京高等師範学校教授(1891明治24年〜1896明治29年)を経て、東京帝国大学助教授となった。

ドイツ・ライプチヒの物理化学者 オストワルト(F・Ostwald、1853-1932年)のもとに留学。1901(明治34)年37歳の時に帰朝して、東京帝国大学理科大学教授となった。
1908(明治41)年44歳の時、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許を得た。これが後年広く用いられるようになった「味の素」の発明である。
1917(大正6)年53歳の時、財団法人「理化学研究所」の創立に参加し、化学部長となった。のち主任研究員となった。
1925(大正14)年からライプチヒで甜菜(てんさい:さとうだいこん)糖溶液その他の研究に従事し、1931(昭和6)年67歳以後は東京の自宅に研究所をもち、化学の諸問題の研究を行った。1936(昭和11)年、腸閉塞のため急逝した。

池田はわが国の「理論化学」の基礎を築いた。19世紀末、ドイツを中心に、自然現象をエネルギーの形態変化で説明しようとする考え方が現れた。この考え方の急先鋒オストワルトに、池田は留学前から大きな影響を受けていた。

彼は、熱力学(自由エネルギー)の考えを使って化学反応の説明を試みた。のちに「物理化学」という名で呼ばれる分野だが、当初はまず「化学」に「物理学」の考えを導入することの意義から説明しなければならなかった。

池田が扱った物理化学的なテーマとしては、浸透圧・化学反応の速度・沸点・溶液中での液相と固相の平衡状態などがある。また、オストワルトの下で知り合ったブレジッヒ(Bredig)とは触媒に関する研究を行い、桜井錠二とは国際原子量委員会へ「酸素16を原子量の基準とすること」を共同提案した。

池田の関心は、やがて「応用化学」へと傾いていき、この面での活躍は多岐にわたる。当時、基本となる味は「甘い」「塩辛い」「酸っぱい」「苦い」の4味であり、すべての味はこれらの4つの味が種々に混じり合ったものであるとされていた。

ところが池田はこの4味の他にも基本となる味があると考えた。それは昆布、鰹節の煮出し汁や魚類、肉類などを食べたときの「うまい」と感じる味(おいしいとは異なる)、すなわち「だし」の味だった。

1907(明治40)年のある日のこと、池田は妻子とともにタ食の膳に向かった。妻のつくった吸物を一口飲んだ池田は、思わず「うまい!」と膝を打った。昆布ダシの吸物の味はそれほど絶品だったのだ。その味の正体を突き止めるための研究を決意したことが、世界初のうま味調味料の発明のきっかけとなった。

1907(明治40)年43歳の時、池田はこの「うまい」と感じる味を「うま味」と名付け、その正体を化学的に突き止める研究を始めた。

グルタミン酸」というアミノ酸は、1866年、ドイツの化学者リットハウゼンによって、小麦粉のたんぱく質の分解物から発見されていた。それをなめて「不快」などと言う研究者がいた中、池田は昆布ダシが「グルタミン酸塩」を含むことと、「グルタミン酸塩」こそが「うま味」の正体であることを確かめた。

そしてこのグルタミン酸塩を、小麦や大豆などの植物性蛋白質から抽出し、新調味料グルタミン酸ナトリウムの製造方法を発明、特許を取得した(特許第14805号、1908明治41年)。「味の素」の誕生である。その後の研究では、テンサイ糖廃液からもグルタミン酸を取り出した。

池田はこれを調味料にすれば国民の健康増進に役立つと考え、翌年に鈴木商店(現在の味の素株式会社)により工業化した。
現在グルタミン酸は微生物発酵法で製造されている。なお、今日では「うま味」は基本となる味の一つとして世界的に「UMAMI」 として通じる言葉になっている。

さらに、製造過程で生じる分離液を使って、「醤油」の製造にも取り組んだ。この発案は受け継がれ、醤油が品薄になった昭和の初期に工業化され、アミノ酸醤油として売り出された。

池田の取った特許は、このほかに、鉱煙を脱硫する装置、人工ボーキサイトの製造法、家庭用乾燥機の発明、「味の素」の大量生産上ネックであった塩酸による装置の腐食を回避するための耐酸塗料、などがある。

後年 理化学研究所の同僚 鈴木梅太郎は「池田さんの仕事は自分の方でやるべき性質のものであるが、洒落では無いがうまくやられた。グルタミン酸はなめた事はあるが、塩はなめなかった」と話した。

現在、3000億円といわれている「うま味調味料」市場。その約半分を日本および日系の企業で占め、日本はうま味調味料の世界最大の生産国となっている。
その歴史は、今から約100年前の、一家庭の一椀の吸物から始まったのだ。

池田の功績は、単なる味の発見にとどまらず、食物のおいしさの世界を説明するためには欠かせない要素と、味とは何かを認識する原理を解くカギを握る味の発見であった。こんぶを食生活に取り込み、だしとして活用してきた日本の食文化があったからこそ、池田の「うま味」の発見があったともいえる。

池田菊苗が抽出したグルタミン酸は、実は10年前に発見された物質で、化学式や製造方法も広く知られていて、池田はなんの発見もしていなかった。池田は、化学者が味を4つに定義したことに素朴な疑間を抱き、「うまい」と感じる味の正体を「化学物質」として特定、「化学」と「味」の2つをつなぐいわばコロンブスのタマゴ的発想をしたことで、うまい話を呼び込んだのだ。

企業においても、「モノの見方・考え方」は非常に大切な要素で、これの優劣で企業人としての価値が決まるといっても過言ではない。ただ、これは、教育によって教え込まれるだけでは習得できないもので、それこそ、見方・考え方の基本的才能の無い人にはいくら言っても理解できないものらしい。

★池田と夏目漱石★
池田はライプチヒ留学を終えロンドンのロイヤル・アカデミーに留学した1901(明治34)年5月5日、夏目漱石の下宿を訪ねた。漱石との交流は池田が帰国する8月30日までの3ヶ月足らずであった。

漱石は池田を「偉い哲学者」「見識のある立派な品性を有して居る人物」「博学で色々の事に興味を有して居る人」と記している。ロンドン滞在中は心を開いて話し合う友人がいなかった漱石だが、池田だけは信頼出来る数少ない友であった。

漱石は池田との出会いによって「幽霊のような文学を止めて、もっと組織的でどっしりした研究をやろうと考えるようになった」

池田に会う前は文学、美術のみに感心があったが、池田との出会いから文学を心理学、進化論など多方面から捉えようと試みた。 

●「味の素」の特許料●
1908(明治41)年4月、池田は「味の素」の「グルタミン酸による調味料の製造法」について特許を申請した。その話を聞き付け、鈴木三郎助(当時41歳)が研究室を訪れ、うま味調味料の工業化の話をもちかけ、池田の特許を共有し、独占的な製造・販売の契約を結んだ。

うま味調味料生産プロジェクトは、試行錯誤の末についに完成。7月、「味の素」の商品名で、鈴木商店から発売され、瞬くうちに大ヒットした。そして鈴木商店は、味の素株式会社と改組し、一躍日本を代表する大企業へと成長した。

発売から14年後の1922(大正11)年、鈴木三郎助は特許期限が切れるのを前にして、特許延長を政界や宮内庁に働きかけた。その理由は、世界初のうま味調味料を普及させるためには時間がかかり、この間に製造・販売・広告に要した積年の努カと出費は、まだ報われてはいない、というもの。彼の至極もっともな言い分はなぜか特許庁に認められ、異例の期限延長を果たした。

となると、特許権の共有者で、当の発明者の池田にも、なにがなんでも同意してもらわなければならない。そこで鈴木は、大金を提供した。「百万円の一時金」と「生きている限り、毎年十万円の寄付」を池田に申し出た。

当時の百万円といえば、現在の約20億円にも相当する。もちろん池田は、これに同意。定年を目前に大金を手にした池田教授は、帝大をさっさと退官し、私設研究所で悠々自適の研究生活に入った。



池田菊苗に関する本
  化学者池田菊苗―漱石・旨味・ドイツ (科学のとびら)
  味の素 (企業コミック)