伝統を近代の感覚で表現

吉村順三

きょうは昭和の大建築家 吉村順三(よしむら じゅんぞう)の誕生日だ。
1908(明治41)年生誕〜1997(平成9)年逝去(88歳)。

東京本所緑町の呉服商の家に生まれる。1921(大正10)年13歳の時 府立三中(現 両国高校)在学中、「住宅」誌主催「小住宅設計懸賞」に入選した。1926(昭和元)年 府立三中卒業。東京美術学校(後の東京芸術大学)建築科に入学、毎週末 京都の寺社を訪ね、実測をした。

1927(昭和2)年19歳の時 単身で京城、天津、北京等を旅行した。1931(昭和6)年23歳で東京美術学校建築科卒業。卒業設計は、「最小限住宅」だった。
在学中より「A・レーモンド建築設計事務所」に入所し、日光トレッドソン邸、赤星四郎週末住宅他を担当した。
1940(昭和15)年32歳の時 渡米、ニューホープの「レーモンド事務所」に勤務した。カレラ邸、モントークポイントの週末住宅などを担当。

1941(昭和16)年33歳の時 最後の帰国船で帰国。12月8日新橋土橋に「吉村設計事務所」を設立。千葉県佐倉厚生園サナトリウムを設計した。
1944(昭和19)年36歳の時 ヴァイオリニスト 大村多喜子と結婚した。

1945(昭和20)年37歳で東京美術学校建築科助教授に就任。1949(昭和24)年 東京芸術大学と改称された。
1951(昭和26)年 銀座2丁目越後屋ビルに事務所を移転した。1954(昭和29年 ニューヨーク近代美術館日本館設計監理のため渡米した。

1956(昭和31)年48歳の時 国際文化会館共同設計に対し日本建築学会賞を受賞。ニューヨーク近代美術館日本館、モテル・オン・ザ・マウンテン、その他に対しパーソン賞を受賞した。1962(昭和37)年54歳の時 東京芸術大学建築科教授に就任。1963(昭和38)年 皇居新宮殿の基本設計を委嘱された。

1970(昭和45)年62歳で東京芸術大学名誉教授になった。1975(昭和50)年67歳の時 アメリカ建築家協会名誉会員に推挙された。また奈良国立博物館設計に対し日本芸術院賞を受賞した。

1989(平成元)年81歳の時 八ヶ岳高原音楽堂設計に対し毎日芸術賞を受賞した。1991(平成3)年 日本芸術院会員になった。
1997(平成9)年4月11日亡くなった。

吉村は住宅建築に最もその才能を発揮し、幾多の名作をつくったが、若いころから日本の古典建築の研究に励み、伝統を近代の感覚で表現した。主な作品として、皇居新宮殿(基本設計)、奈良国立博物館新館、国際文化会館(1955年、共同設計)、自邸「南台町の家」(1957年)、「軽井沢の山荘」(1962年)、「ポカンティコヒルの家」(1974年)、八ヶ岳高原音楽堂(1988年)などがある。

吉村が自身の別荘として1962(昭和37)年54歳の時に建てた「軽井沢の山荘」がある。「山荘は、贅をつくした建物である必要はなく、ごく私的な生活を楽しむ場でよいと思います。自然とともにあることが感じられる、質素で気持ちのよい場であること。この山荘に私が求めたのはそれだけです」

吉村は、現在のモダンリビングの基礎を創り上げ、住宅設計を中心として生活に根差した視点から独自の空間を生み出した。現在でもそのプランのうまさや、独特の低いプロポーションは建築を学ぶ人を魅了している。

彼の生み出す住宅作品は常に、日本の住宅デザインに何らかの影響を与えてきた。ローコスト住宅からロックフェラー邸まで、超モダンな住宅から数寄屋建築までと、その活動範囲はまさに驚異的である。
彼の作品創造の根底に流れる、「気持ちよい」という理念には多くの含蓄がある。

吉村順三は、若い頃から日本全国を始め世界各国の古建築や民家を見て歩いた。その後戦争が始まるまでのアメリカ生活の経験などの中で、日本の伝統と近代を丸ごと包み込んだところでの人間と建築の本質を発見している。そこには理屈や理論では理解できない経験の蓄積の中から生まれてくる真実がある。

企業においても、現場経験は非常に大切だが、ただ経験するだけでなく考えながら経験しなくてはいけない。またその現場のベテランなどと話をすることにより歴史を知ることも大切なことだ。

★新宮殿設計問題(吉村事件)★

戦争で失われた皇居の宮殿が新しく建て直されることになった時、宮内庁は当時の代表的な建築家たちと面接し、その作品を検討した結果、戦後の民主主義日本にふさわしい清楚で品位のある新宮殿の設計者として最適であるとして、吉村順三に設計を依頼した。
 
吉村が心血を注いだ基本設計は見事にできあがったが、実施設計と工事の段階でトラブルが生じた。膨大な実施設計図は宮内庁造営部のスタッフが制作していったが、事務処理の円滑さや製図作業の安楽さを重視し、細部の設計段階において、建築家である吉村の指示を次第に無視したり、無断で変更するようになっていった。

事態の悪化がピークに達したとき、吉村は宮内庁長官に宛てて公開質問書を送った。
「この重要な建造物の設計は指名されたひとりの建築家に一任すべきものであり、宮内庁造営部が設計するのではない。・・・新しい日本の宮殿を後世に残して恥かしくない、典雅な 品位あるものとするためには、どうしても設計者の終始一貫した誠意と熱情によって最後まで設計が運ばれなければなりません」

しかし、これは受け入れられず、万策尽きた吉村は、芸術家としての良心を放棄するにしのびず、ついに辞表を提出した。そのため公式には、彼の名前は ”基本設計者” としてしか記載されない。

建築家の設計活動など何一つ理解しない日本の官僚機構の問題であったが、その壁の厚さと高さを痛感させられる事件でもある。 

吉村順三のことば
  「少ない材料で豊富な空間をつくるのが、建築の本当の魅力だ」
  「そこに住む人が自在に自分にあった雰囲気を造れる
   というところが日本建築の特色じゃないか」


吉村順三の本
  吉村順三のディテール―住宅を矩計で考える
  吉村順三設計図集
  吉村順三・住宅作法
  吉村順三を囲んで
  小さな森の家―軽井沢山荘物語