明治の殖産興業に大いに貢献

ナウマン

きょうは明治時代に日本で活躍したドイツの地質学者 エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann)の誕生日だ。1854(安政元)年生誕〜1927(昭和2)年逝去(72歳)。

ザクセン王国(現 ドイツ)マイセンに父 ハインリッヒ・母 ヴィルヘルミーネの間に姉1人妹5人の長男として生まれた。ドレスデンのチョッヘ学校で初等教育を受け、ドレスデン工業高等学校を経て1873年19歳の時ミュンヘン大学へ入学した。

卒業後、バイエルン王国高等鉱山局助手となったが、1875(明治8)年21歳の時、明治政府に東京開成学校鉱山学科の教授として招かれ、ドイツを出発した。ところが、渡航中、東京開成学校鉱山学科が廃止され、文部省金石取引所(鉱物博物館)に勤務し、翌年 22歳の若さで東京大学地質学教室の初代教授となった。
彼の日本での業績は、東京大学地質学教室の初代教授として地質家を養成したこと、また、現在 茨城県つくば市にある国の調査機関「地質調査所」の設立に尽力し、設立後は、1879(明治12)年25歳で調査責任者として、日本列島の地質調査に従事し、日本初の本格的な地質図を完成させたことだ。

近代地質学を伝えたことと地質図をつくったことは、明治の殖産興業に大いに貢献した。調査は北海道を除く地域で行われ、調査距離は1万kmにもおよんだ。当時は、等高線のある地形図はなく、あったのは伊能図の海岸線の輪郭図のみで、地形図を作りながら(測量しながら)、地質調査をするといった大変な仕事だった。

特に日本の地質構造をまとめ、中央構造線とこれによる外帯と内帯の区分「フォッサ・マグナ」とこれによる西南日本東北日本の区分など、現在も用いられている地質構造区分をしたことは有名。
また、野尻湖の湖底発掘で有名な「ナウマンゾウ」の名前は、日本でゾウの化石をはじめて研究した博士の名前にちなんでつけられた。

その後、1885(明治18)年31歳でドイツへ帰国し、ミュンヘン大学の私講師やフランクフルトの鉱山会社に勤務し、72歳で亡くなった。

エドムント・ナウマンは、日本の地質学の基礎を築いたドイツの地質学者で、21歳の時に来日した。日本には10年間滞在し、31歳で帰国した。
21歳の若い学者が31歳までの10年間で日本に残したものはあまりにも大きく、日本の地質学の歴史を改革的に変えてしまった。

企業においても、配属されて数ヶ月から数年の間に、配属先の部署を大幅に改革し、嵐のように去っていく人がいる。そのような人は集中力とパワーで短期間に暴れまくることができるが、長続きしないことが多い。人事的には、改革の糸口を作った後は配点する方が好結果になる場合が多い。

ナウマン象★
地質時代の日本列島には多くの種類のゾウがいた。とりわけナウマンゾウは北海道から九州まで、全国的に化石が見つかっている。

千葉県では、1971(昭和46)年に下総町猿山からオスの成体の完全な頭骨が発見された。復元されたナウマン象は、牙の先から後ろ足のかかとまでの長さが2m、肩までの高さが2.7mの大きさだった。

ナウマンゾウは日本列島が大陸と地続きだった氷期に大陸からやってきた北方系の種類で、約1万5千年前に絶滅した。インド象に比べナウマン象は体がやや大きく前足も太く、キバも長かった。頭も大きくてやや細長く、頭頂部にふくらみがあり、耳は小さかった。

日本列島で最も繁栄したが、約2万年前に絶滅してしまった。それは寒冷化や温暖化といった気候変動による生存環境の激変に適応できなかったのかもしれないが、旧石器人と新石器人の乱獲の影響もまた大きかったと推定されている。

     
   30万年前の地形     ナウマンゾウ全身骨格 ★フォッサマグナ★ (Fossa Magna) ラテン語で、「大きな溝」という意味。古い地層(主に中生代古生代の地層)でできたU字溝のような溝に、新しい地層(新生代の地層)が積もったもの。 溝の真ん中には、大きな割れ目があって、それを通ってマグマが上昇し、南北の火山列ができたと考えられている。ナウマン博士は、フォッサマグナの西縁を糸魚川-静岡構造線、東縁を直江津-平塚を結ぶ線と考えた。 このようにフォッサマグナは領域を示す言葉であり、「フォッサマグナ糸魚川-静岡構造線」と考えるのは正しくない。



ナウマンの本
  よみがえったナウマンゾウ (フォア文庫―まんが恐竜博士シリーズ)
  日本地質の探究―ナウマン論文集
  ナウマン象を掘る―象の来た道 (偕成社文庫 3096)
  フォッサマグナ
  フォッサ・マグナ―信州の地下を探る