Japan Day by Day

エドワード・シルベスター・モース

きょうはアメリカの動物学者で日本の動物学・人類学の育ての親 エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse)の誕生日だ。
1838(天保9)年生誕〜1925(大正14)年逝去(87歳)。

メーン州ポートランドに生まれた。12、3歳の頃から貝の収集を始め、18歳で新種も発見し、10代の末にはボストン近辺の同好家に名が通っていたほどだった。一方、彼はもともと絵がうまく、16歳で製図工の職に就いたほどの腕前だった。

その後、ハーバード大学に学び、動物学者ルイ・アガシーに師事した。1863年6月18日25歳の誕生日に、エレン(Elen Elizabeth Owen)と結婚した。
1867年3月 モースを含むアガシーの弟子4人で「American naturalist」を創刊。5月にはアガシー門下とピーボディー科学アカデミー(現 Peabody Museum of Salem)を創設し、学芸員(軟体動物担当)となった。その後、メーン州立大学、ボードウィン大学、ハーバード大学(比較解剖学、動物学)の教授となった。

貝類の研究をしていた彼は、腕足類の研究のため、それが豊富な日本での研究を計画し、1877(明治10)年、私費でサンフランシスコを発ち横浜に到着、江ノ島に「臨海実験所」を設立した。

この年6月18日39歳の誕生日に横浜に到着したモースは、20日に横浜から東京へ向かう汽車の窓から、大森駅を過ぎてほどなく線路左側の崖に貝殻の層が露出しているのを見て、それが古代の貝塚であると直感した。

翌7月に、東京大学理学部動物学生理学の教授になることを依頼され、動物学、生物学を教えた。モース日本到着の2ヶ月前、1877(明治10)年4月に東京開成学校が改称され東京大学が開設されている。東京大学との契約は、1877(明治10)年7月から2年間、月給は350円(日本人教授は100円)だった。

大森貝塚」の発掘調査を実施するうえでの有利な地位と資金を確保できた彼は、さっそく、9月から大森貝塚の発掘に取り掛かり、11月にかけて3次にわたって行なわれ、数多くの貴重な発見をし、日本の考古学・人類学の幕を開いた。

発掘された資料は土器類を主とし石器、骨角器、獣骨、人骨があり、1879(明治12)年 新設の大学博物館に陳列された。特に彼の専門である貝の研究は詳細を極め、大森貝塚の特徴を世界の貝塚と比較しその個性と共通性を論じている。
発掘の詳細な記録は無いが、発掘時、地主に対する保証が50円という大金であったことから、その規模が相当大きなものであったことが推定される。

モースは、東京大学の教授となってわずか2年の間に、大森貝塚の発掘以外に、近代動物学への導入、東京大学生物学会(現 日本動物学会)を創設し、東大に進言して日本最初の大学紀要を発刊させ、また、博物館を新設させた。
さらにダーウィンの進化論を日本へ紹介し、大学で講義するだけでなく、各地を廻って講演し普及につとめた。また、近畿、北海道の古墳も発掘した。

また、日本の風俗、陶磁器などの研究にも興味を持ち、収集した品は1890(明治23)年 ボストン美術館に売却した。これによりモースは借財から解放された。このコレクションはボストン博物館に保存され、ボストン美術館と日本との関係を初めて切り開くことになった。

滞日中の日記を基に記した「Japan Day by Day(日本、その日その日)」は、1917(大正&)年に刊行され、当時の日本の様子を知るための資料として、大変貴重なものとなった。

彼は終生日本と東京大学を愛した。1923(大正12)年 関東大震災東京大学図書館が壊滅したことを知ると、自分の蔵書をすべて寄贈することを遺言にした。現在でも総合図書館蔵書の中にモース寄贈の印が押された本がある。

エドワード・シルベスター・モースは、アメリカの優れた動物学者であったが、異文化の日本に興味を持ち、それが大きな発見や日本文化の世界へのアピールとなっている。

企業においても、他部署への移動や、転職などでは、大きなストレスがあるものだが、それは大きな発見や改善テーマ、自己改革になることもあり、前向きに捉えることができれば、より飛躍するチャンスになる。


モースの本
  日本その日その日 (1) (東洋文庫 (171))
  日本のすまい―内と外
  モースのスケッチブック (新異国叢書 第3輯)
  エドワード・シルベスター・モース 上(下巻)
  大森貝塚―付 関連史料 (岩波文庫)

モースのスケッチブック (新異国叢書 第3輯)日本その日その日 (1) (東洋文庫 (171))