言い尽くせないDNA

島津源蔵

きょうは日本の十大発明家のひとり、二代目 島津源蔵(しまづ げんぞう、幼名:梅次郎)の誕生日だ。
1869(明治2)年生誕〜1951(昭和26)年逝去(84歳)。

京都の仏具の職人だった初代島津源蔵の長男として生まれた。細工物の技術を持っていた父は、設立されたばかりの「京都舎密局」(「舎密:せいみ」はケミストリーの漢訳、現在の工業試験場のような機関)で理化学の実験や研究を手伝っていた。これが"西洋鍛冶屋"「島津製作所」の創業につながった。

1875(明治8)年 初代源蔵は京都木屋町二条南で、 教育用理化学器械製造業を起業した。新しもの好きで、1877(明治10)年には、日本で初めて人を乗せた軽気球の飛行に成功、島津源蔵の名は世に知れ渡るようになった。このDNAが梅次郎にも流れている。
小学校に入ったばかりの梅次郎は、父の創業と共に手伝い始めた。梅次郎は次々と修理のために持ち込まれてくる外国製の機械を見るたびに、「なんで日本人にこないな機械が作れんのやろか」と父に聞いた。「作れんのやない、機械の勉強した人がおらんのや」。この何気ない一言が梅次郎の心を揺り動かした。

梅次郎は小学校での勉強にも自然と身が入った。しかし、会社の人手が足りなくなってきたこともあり、父は泣いて勉強したがった梅次郎をむりやり2年で退学させた。だが梅次郎の向学心は衰えなかった。仕事の合間に「舎密局」に出入りし、フランス語の物理学の本を借りてきて、図や絵を眺めて想像をたくましくした。

そのうち赴任してきたばかりのドイツ人学者ゴットフリード・ワグネルをつかまえて質問を浴びせかけるようになった。梅次郎にとって、ワグネルは最先端の知識を与えてくれる願ってもない師だった。

源蔵は博覧会などで、新しい機械に出合うと、仕組みがわかるまで、一日中、見続けた。日本で初めて京都に路面電車が走ると、電車の下にもぐって、真剣に調べていたという。何でも、感動し、勉強し、ものを見通す目を養っていった。
源蔵は、“努力の天才”だった。

1884(明治17)年15歳の梅次郎は、前年に英国のウィムシャーストが発明した感応起電機(静電誘導を利用して高電圧を発生させる装置)を、図解してある1枚の挿絵から完成させた。周囲の人々は初めて見る電気の火花とパチパチという音に興奮し「島津の電気」と呼んだ。翌年京都博覧会でこの装置を見た文部大臣 森有礼も梅次郎少年がつくった先端の機械に驚嘆し絶賛した。「電気」こそが梅次郎の創造力を刺激し続けるものとなった。

電気の火花を起こして見せた若き発明家 梅次郎は一躍京都の有名人となった。1887(明治20)年、そんな梅次郎を京都師範学校が金工科教員として招聘した。小学校に2年しか通っていない梅次郎が、欧米に追い付き追い越すための教育を担っていく教師の卵に、理化学を教えることになった。

梅次郎は、1892(明治25)年に本業が忙しくなり手が回らなくなってその職を辞するまでの間、学生たちに物理学、特に電気について教え続けた。教壇に立つというより、実験が中心で、自らの発明した感応起電機を前に電気の可能性について熱く語る梅次郎に学生たちは心を躍らせた。また、この時に培った交友が、後の島津製作所の製品開発や販路拡大において大きな影響をもたらした。

蒸留器などの理化学機器から、医療器具などの開発・製造までを手がけるようになったこともあり、島津製作所は順調に業務を伸ばし、1894(明治27)年には本店や工場を拡張するに到った。そんな矢先、梅次郎に試練が訪れた。父 源蔵が脳溢血で急死したのだ。

梅次郎は悲しみに暮れる間もなく、26歳でニ代目 島津源蔵を襲名、トップとなった。この年、日本は日清戦争に勝利、賠償金による経済拡大の期待もあり、民間では株式会社の創業ブームが起こった。ところが、政府は賠償金で大量に金を購入、金本位制に移行したうえ増税政策に走り、好景気への期待は裏切られた。

島津製作所でも本店の急激な拡張など、まとまった投資を行っており、それがニ代目源蔵の肩に重くのしかかってきた。30名を越える従業員を食べさせていく立場となった源蔵はあせりを隠せなかった。製品のほとんどは父の遺産でしかない。早く自分の作ったモノを世に出さなければ… 源蔵は考えた。

源蔵は、初代の精神を引き継いで実験、研究を重ね、1895(明治28)年「蓄電池極板」の試作に成功。また、レントゲン博士がX線を発見した翌年の1896(明治29)年には第三高等学校(現 京都大学)と協力してX線写真の撮影に成功し、医療用X線装置を完成させた。

1897(明治30)年に蓄電池の製造に着手し、1904(明治37)年、軍艦で使う無線電信の電源用蓄電池を納品した。これが日本海海戦での「敵艦見ゆ」の無電第一報を受信する無線機の電源となった。1917(大正6)年には蓄電池部門を分離独立させ「日本電池」を創立、GS(Genzou Shimazu)バッテリーとして多くの電源に使用されている。晩年には、自分の手掛けた蓄電池を搭載した電気自動車で京都の街を走り回っていた。

その後も次々と新しい技術・製造を開発、「日本のエジソン」と呼ばれた源蔵の先見性は、事業家として見事であった。1930(昭和5)年には「日本十大発明家」の一人として表彰され、昭和天皇に拝謁(はいえつ)した。

島津源蔵は、島津製作所の第二代社長だが、島津製作所と言えば、いまや2002年のノーベル化学賞を受賞した田中耕一である。しかし、そのベースに脈々と流れているものは、やはり初代および第二代の島津源蔵の考え方であり、京都という場所柄である。

企業においても、社風というか会社の雰囲気というものは、ことばで言い尽くせないDNAのようなもので、社員全員の仕事に対する考え方が社風をつくり、社風が人を通して仕事を完遂(かんすい)させていくのだ。


島津源蔵のことば
  「学理を教えられたら、その応用を考えなければならない。
    死に学問では駄目だ」
  「モノづくりというのは社会に役立つものでなければならない」


島津源蔵の本
  親父よ。―小説・島津源蔵