負けん気、独特の風貌

一万田尚登

きょうは第18代日本銀行総裁で大蔵大臣 一万田尚登(いちまだ ひさと)の誕生日だ。
1893(明治26)年生誕〜1984(昭和59)年逝去(90歳)。

大分県野津原村(現 野津原町)で生まれる。1918(大正7)年25歳で東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。日本銀行に入行し、調査局勤務となった。

1923(大正12)年30歳のとき、ベルリン駐在となった(1926年大正15年まで)。1937(昭和12)年44歳の時、京都支店長に、1938(昭和13)年45歳で検査役になった後、検査部長に昇進した。
1942(昭和17)年49歳で考査局長。全国金融統制会理事になった。1944(昭和19)年51歳で日銀理事に就任した。1945(昭和20)年、名古屋支店長の後、大阪支店長になった。

1946年6月1日、新木栄吉総裁の公職追放に伴い、53歳で第18代日銀総裁に就任した。日本証券取引所評議員などを歴任したあと、1951(昭和26)年58歳の時、日銀総裁に再任された。

一万田は、米軍占領下の日本において、爆発するインフレを抑え込む一方で、限られた資金を産業復興に注ぎ込む綱渡りをやってのけ、日銀に君臨した。

1951(昭和26)年9月サンフランシスコ講和会議全権委員に任命された。1954(昭和29)年61歳の時、日銀総裁を辞任した。
在任期間は8年7カ月と歴代総裁の中で最長だった。

その後、1956(昭和31)年まで鳩山内閣の蔵相に就任した。1955(昭和30)年62歳の時、日本民主党として大分県第1区から出馬し衆議院議員に当選した。
1957(昭和32)年64歳の時、岸内閣の蔵相に就任した(1958年まで)。このときデフレ政策を実行、「一万田法王」の異名でよばれた。

1969(昭和44)年76歳の時、衆院解散に伴い、議員を退任、政界から引退した。1984(昭和59)年1月22日、心不全のため逝去。

一万田尚登は、持ち前の負けん気、独特の風貌であった。個性あふれるセントラルバンカーは、連合国軍総司令部(GHQ)と渡り合える唯一の経済人だった。

日銀総裁の任期は5年で、途中解任はできない。「政府に対抗できる」「海外の当局と直接話し合える」など「総裁の7条件」として日銀内で語り継がれている。
日本の金融界のトップとして経済政策に大きな力を持つだけに、優れた人間性が要求される。

企業においても、社長の権限は絶大であるが、権限のみならず、その影響力は非常に大きいものがある。社長は常に見られる存在であり、発言・行動・人間性すべてにおいて社員に影響し、それを超える人材は出てこない。
社長のレベルを少し上げるだけで会社のレベルがそれに伴って上がるわけで、人に言う前に自身のレベルを上げることだ。

★「ペンペン草」発言★
川崎製鉄の社長 西山弥太郎が1950(昭和25)年、「千葉に製鉄所を造る」と、通産省に請願書を提出した。総工費163億円規模の銑鉄一貫工場建設の計画だった。東京湾の一角を埋め立てて工場建設という思い切った計画も大胆ならば、当時の川崎製鉄の資本金は5億円でしかなかった。それだけの会社が建設費の半分の80億円を国からの融資に求めるものであったから、当時の産業界の大きな話題になった。 

西山は日銀総裁 一万田に話を持って行った。一万田は「あまりにも計画が大き過ぎる。とても無理な計画で、いま日本で大製鉄所は成り立たない。アメリカは技術が格段にすぐれ、鉄鉱石も原料炭もすべて安い。日本が遠くから運んで来ても失敗するに決まっている。製鉄所の屋根にペンペン草が生えても知らないよ」と言った。
この発言が増幅されて、「一万田は『ペンペン草を生やしてみせる』と言った」と伝えられた。

一万田によると「そんなことを言った覚えがない。ただ、あの計画は戦後初めて高炉を建てるものだったから、順序からすればやはり旧日鉄、つまり分割された八幡か富士から認めるのが筋だ。しかもまだその時期さえ早すぎると思っていた」と言っている。
しかし時の金融界に君臨し「法王」と呼ばれた一万田の「慎重に」は「ノー」と同義だった。 
この一万田発言は、西山も否定している。 

結局はっきりした事は分からないが、「川鉄ごとき小会社が・・・」という反発が経済界に強かったことも否定できない。「法王」とも言われた権威者、「一万田法王」と「ペンペン草」の取り合わせは、そうした空気を巧みに伝えて歴史に残る造語となったといえる。

●一万田法王時代●
一万田尚登日本銀行総裁に在任したのは、1946(昭和21)年6月から1954(昭和29)年12月までの約8年半の歳月だった。この時期を「一万田法王時代」と呼ぶ。その理由は
 (1)当時の日本銀行の地位・機能が大きな社会的影響力を持っていた。
 (2)一万田個人の政治力の大きさによる。
 
(1)終戦直後の日本経済は絶対的貨幣資本不足の下で、財閥系銀行、特殊銀行ともに十分な資金供給力を持たず、金融機関はもとより、大企業に到るまで日本銀行に依存しなければ資金調達が出来なかった。その一方で、インフレの恐れは度重なる抑制政策にもかかわらず消えなかった。このため通貨発行銀行としての日銀の責任と同時に権威をも高めることとなった。日銀の政策は
「経済復興のための十分な資金供給という通貨拡大政策」と
「インフレを抑制するために通貨拡大を押さえる」
という矛盾する政策目標を達成しなければならなかった。このような困難な金融政策目標の下、民間の金融機関は日銀の援助なくしては経済復興資金を供給する能力を発揮することが出来なかった。

(2)こうして日銀総裁の意向を無視しては、金融機関も大企業も経営方針や経済活動の方向を決定することができなかった。ここに日銀の、「一万田法王」の権威を高める理由が存在した。
一万田総裁の8年半の間に、内閣は7つ、大蔵大臣は9人をも数えた。また公職追放令によって有力な財界人が少なくなったこともあり、一万田総裁は広範な分野にわたって密接な関係を持ち、不動の地位を築いていった。



一万田尚登の本
  「非常時の男」一万田尚登の決断力―孫がつづる元日銀総裁の素顔
  小説 日本銀行 (角川文庫)
「非常時の男」一万田尚登の決断力―孫がつづる元日銀総裁の素顔