人間臭い社会的な現象

糸川英夫

きょうはヴァイオリンからロケットまでのマルチ人間 糸川英夫(いとかわ ひでお)の誕生日だ。
1912(明治45)年生誕〜1999(平成11)年逝去(86歳)。

東京市麻布区(現 東京都港区西麻布)に生まれる。幼い頃より、何にでも関心を持った。5歳の時に家に初めて電灯が点った時、父からトーマス・エジソンの名を聞き「大きくなったら発明家になる」と“宣言”した。小学校時代は工作に熱中、中学生になると「液体で磁石ができないか」という考えに取りつかれ、電磁石の実験を重ねた。

旧制高校時代には、リンドバーグの大西洋横断に刺激され、結局、東京大学工学部航空学科に進んだ。1935(昭和10)年、東大を卒業後、中島飛行機で「隼」「鍾馗(しょうき)」など名戦闘機の設計に参加する一方、東大航空研究所で空気力学、航空機の操縦安定性などの研究をした。
戦時中、1941(昭和16)年29歳で東大第二工学部助教授に任ぜられ、音響利用ミサイルの研究を開始した。1948(昭和23)年36歳で同大学教授になった。しかし、戦後は航空が禁止されたため、医療電子機器および音響学の研究を行い、脳波や心電図測定器を開発した。「音響インピーダンスの測定法」で学位を授与され、かたわら自らバイオリンの設計と製作をした。

ある日、アメリカの大学の図書館で、「スペース・メディスン」という本をみつけた。それは人間が宇宙に行った場合に人体に与える影響について分析したものだった。糸川は思った「アメリカは人間をロケットに乗せて宇宙へ送り出すらしい」

それ以来、頭からロケットのことが離れなくなった。「ロケットを作ろう」、こう決心すると精力的に動き始めた。ロケットは飛行機の専門家だけでなく、幅広い分野の専門家が必要だ。そして、”太平洋を20分で横断するロケット旅客機”構想をぶち上げ協力を求めた。

1952(昭和27)年40歳の時、講和条約の締結により航空の禁止が解かれるやいち早く、宇宙ロケットの研究組織を作り、1955(昭和30)年2月 固体燃料のペンシルロケットで水平飛行実験。同年8月 秋田県道川海岸でペンシル300を打上げ、高度600m到達。1958(昭和33)年46歳の国際地球観測年に超高層大気観測用ロケット「Κ(カッパ)-6型ロケット」を成功させた。

1960(昭和35)年には、Κ(カッパ)-8型で高度100kmを達成した。さらに、東大宇宙航空研究所では、日本初の人工衛星の打ち上げに挑戦した。
打ち上げに必要な個々の技術にもはや問題はなく、プロジェクトの成功は、これらの技術、関わっている人々、カネをどのように管理・運営するかにかかってくる。

糸川は「システム工学」の重要性を認識していった。そして、さまざまな分野のヒト、限られた予算と時間を巧みにアレンジして戦略を立て、スケジュールを組み、管理するという糸川流システム工学を確立していった。

その後も研究を重ね、世界に例のない、大学の開発したロケットによる日本独自の科学衛星計画を実現した。1967(昭和42)年55歳で東大を辞職、「組織工学研究所」を創立し、海洋工学、エネルギー貯蔵、都市開発、地球環境問題等の課題に取り組み国内外の人々の啓蒙と交流に努めた。この頃、コンサルタント並びに研究講演会活動の経験を生かした「逆転の発想」誌が爆発的ベストセラーとなった。

1970(昭和45)年2月11日、 東京大学宇宙航空研究所(後のISAS)は国産初の人工衛星おおすみ」を打ち上げた。この年は3月に大阪で「日本万国博覧会」、同3月に日本赤軍による「よど号ハイジャック事件」、11月に「三島由紀夫割腹自殺」などが起きた年だった。そのような時代に、左翼の執拗な妨害に屈することなく、日本の宇宙技術に多大な貢献をした。

糸川の研究は、航空機、医療電子機器、音響学、宇宙ロケット、海洋工学等の工学的な分野のほか、組織工学、システム工学、さらには自ら創り出した種族工学のように、文化人類学社会工学のような範囲におよぶ。
その研究の特徴の一つは、実際に新しいモノを創造したことである。これは糸川の工学者(エンジニア)としての本領である。

もう一つは、人間臭い社会的な現象について発見あるいは再発見し、解きあかす科学者の見方で、その集大成は一つの哲学である。また、朝日新聞の科学担当記者(木村繁)との間に銀座のママを巡る確執もあったようだ。
宇宙ロケットのパイオニアであり、「逆転の発想」から地球環境まで、夢を持ち続けた大衆的科学者だった。

糸川英夫は、航空工学をベースに、ヴァイオリンから医療機器、ロケットを創り、最後にはシステム工学というソフトウェアの重要性を提唱した。

企業においても、個々の技術は優れていても、それをまとめ上げる組織(システム)が乏しいと、いいものはできない。それは個人レベルでも同様で、個別技術に加えて協調性や人間性が必要となる。

★糸川の業績★
●航空機
大学の卒業論文で、音速飛行で問題となる空気の圧縮性について「円筒の抵抗に及ぼす空気の圧縮性の影響」を書いた。
九七式戦闘機のプロペラと主翼の設計を手始めに、空力設計者として戦闘機の設計に参加。当時は、空中戦のための運動性能の良さが要求され、とくに空戦フラップを発明した。
「航空機の設計者はパイロットと仲良くなるべし」がモットーの設計者であったが、後年は特攻機などの非人道的な技術に反発して無人誘導弾の試作に没頭、ホーミング、ビームライダー、慣性誘導など先行的な技術を手がけた。
エンジンの排ガスを推進力に使う「ジェットエンジン」の発想は、ホイットルの発明より2年早かったが、有効な支援がなく実現しなかった。
 
●医用電子機器と音響学
戦後は、航空技術を医学に応用する研究に転じ、「脳波診断器」を開発、東大病院と東京国立第一病院、同第二病院で実用化した。
さらに、清水健太郎教授の発想による「麻酔深度計」の研究のため渡米し、名門の大学と研究所を歴訪、シカゴ大学では麻酔深度測定の論文を認められ、講義をした。滞米期間は約半年で、草創期のアメリカの宇宙開発の一端に触れた。
また、音響学を応用物理学のテーマとして選び、「名器としてのバイオリン」という研究を行い、自らもE弦の音の出しやすいバイオリンを製作し、のちにヒデオ・イトカワ号と命名して、名バイオリニストのメニューヒンに弾いてもらっている。

●宇宙ロケットと組織工学
講和条約締結により航空の禁止が解除されたので、1954(昭和29)年42歳の時、糸川は直径が18mm、長さが23cm、重さ200gの「ペンシルロケット」で研究を開始した。小さなロケットに大がかりな研究班を組織したのは、ロケットによる宇宙観測が多くの専門家を必要とする「学際技術」になると予測して、「組織(システム)工学」を実験する目的もあった。
1957(昭和32)年〜1958(昭和33)年の「国際地球観測年」(IGY)の学術事業では、南極基地の設営と「ロケットによる超高層大気観測」がわが国の二本柱であった。糸川のロケット研究チームは後者を担当し、ほとんどゼロから始めて短期間で完成させ、1958(昭和33)年6月 高度60kmまでの大気観測に成功した。このロケットはΚ(カッパ)-6型ロケットだった。
国際地球観測年に自力で観測ロケットを飛ばし、データを収集したのは、米ソと英国、そして日本だけだった。この成功によって、日本はロケットを打ち上げる実力を持った国として、一気に世界中の注目を浴びるようになった。
「日本のロケットの父」といわれ、ペンシル、カッパ、ラムダ、ミューと続く国産ロケットの産みの親だった。



糸川英夫の本
  逆転の発想―社会・企業・商品はどう変わる? (角川文庫 緑 491-2)
  独創力―他人のできないことをやる (カッパ・ブックス)
  前例がないからやってみよう―不可能からの脱出 (カッパ・ブックス)
  やんちゃな独創―糸川英夫伝 (B&Tブックス)
  少年時代 糸川英夫―ロケット博士への道 (講談社KK文庫)
やんちゃな独創―糸川英夫伝 (B&Tブックス)