内に秘めた激情を
きょうは短命ながら内面的に激しく生きた歌人 山川登美子(やまかわ とみこ、本名:とみ、別号:白百合)の誕生日だ。
1879(明治12)年生誕〜1909(明治42)年逝去(29歳)。
福井県遠敷郡竹原村(現 小浜市千種1丁目)の旧小浜藩士 山川家に、父 貞蔵・母 ゑいの4女(第6子)として生まれた。父は大目付役、用人を努め、維新後は第二五銀行の頭取の要職という由緒正しい家系だった。登美子は、雲城高等小学校在学中の学業成績は抜群、習字・和歌・絵にも親しんだ。1894(明治27)年 高等小学校卒業。
1895(明治28)年、16歳で梅花女学校の本科に編入学し、2年後の1897(明治30)年、第13回卒業生として本科邦語科を卒業した。その後、再び梅花女学校の研究生として大阪に嫁いでいた姉の家から通った。
「浪華津の梅の園生におひ立ちてかをり初めしは師の君の恩」
その頃に投稿した歌が「明星」第二号(1900年明治33年5月)に載り、次号より「東京新詩社」の社友として歌を発表するようになった。歌を送り、与謝野鉄幹が添削して「明星」に掲載するというのが東京新詩社のシステムだった。
そして鉄幹によって、直接添削された自分の歌が送り返されてくるうちに、登美子は鉄幹に恋心を抱くようになるが、歌と恋のライバルとなる鳳晶子(のち 与謝野晶子)はすでに社友として歌を発表していた。鳳晶子、茅野雅子とともに「明星」の三才媛と目され、初期の女流歌人として歌を発表した。
1900(明治33)年8月21歳の時、登美子はついに住の江の歌会で鉄幹と対面を果たした。絆を深めた登美子は「明星」に自分の道を見出した。しかし、登美子の父が本家の山川駐七郎(とめしちろう)との結婚を決めてしまった。
「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」
父親に逆らう術を知らない登美子は「明星」、そして鉄幹と別れる事を決意し、山川のところへ嫁いでいった。しかし、結婚してわずか2年ほどで夫は結核で亡くなってしまった。
夫が亡くなって2年後の1904(明治37)年25歳の時、彼女は自立をめざして梅花女学校の第4代校長 成瀬仁蔵を慕って上京し、その創設した日本女子大学英文科に入学、1905(明治38)年、与謝野(旧 鳳)晶子・増田(旧 茅野)雅子との合著詩歌集「恋衣」を刊行した。
「髪ながき少女とうまれしろ百合に額ぬかは伏せつつ君をこそ思へ」
しかし、この年より亡き夫 駐七郎から感染した結核に病み、苦痛の日々を送る事になり、とうとう、1906(明治39)年27歳の時には病状悪化のため日本女子大を中退した。
「我いきを芙蓉の風にたとへますな十三絃(げん)を一いきに切る」
翌年最愛の父が亡くなり、故郷に帰った彼女はそのまま病臥生活に入り、孤独と絶望の中で1200首余りの歌を残し、1909(明治42)年4月15日この世を去った。29歳9ヶ月のあまりにも短い生涯だった。
「白百合の君」と称せられた、登美子だったが、その人生は儚く終わった。
折口信夫は次のように登美子を称えている。「晶子と登美子は、ほとんど時を同じうして歌壇にあらわれたが、晶子は鉄幹と結婚していよいよ歌になじみ、結婚生活に幸福でなかった登美子は若くして亡くなった。この運命がもし入れかわっていれば、登美子のほうがすぐれた歌人としての業績を残したかも知れない」
その歌風は、主情的・浪漫的なものから、内に秘めた激情を大胆に、抑制的に表現するものへと変化するといわれ、晶子の奔放華麗さに比し、清楚で哀婉(あいえん:あわれで美しく、しとやかなさま)な詠みぶりを特色とすると評されている。
山川登美子は優れた才能を持ちながら、短く不幸な一生を送っている。しかし、明治時代にあって、態度や行動に表せない気持を、歌を通して表現できたことは救われるものがあったのではないか。
企業においても、自分の率直な気持をそのまま口に出して言えないことは少なくない。思ったことをその場で言うよりも、一度自分なりに文章にしてみると、それほど重要でもなかったり、言わないでよかったと思うことも多い。冷静に考えてみることで、自分の気持の整理もできる。
山川登美子 辞世の歌
「父君に 召されていなむ とこしへの 春あたゝかき 蓬莱(ほうらい)のしま」
山川登美子の本
山川登美子全集 (上巻)
白百合考―歌人・山川登美子論 (夢本シリーズ)
白百合の崖(きし)―山川登美子・歌と恋 (新潮文庫)
山川登美子と明治歌壇
山川登美子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)