巨大な流れに沿って考える

内藤湖南

きょうは中国史を変えた東洋史学者 内藤湖南(ないとう こなん、本名:虎次郎、号:湖南)の誕生日だ。
1866(慶応2)年生誕〜1934(昭和9)年逝去(67歳)。

羽後鹿角郡毛馬内(現 秋田県鹿角市 かづのし)の藩儒の家に生まれた。生家が十和田湖の南にあったので、「湖南」と号した。秋田県師範学校卒業後、小学校訓導(くんどう:教諭)をへて、青雲の志し止み難く、1887(明治20)年21歳のとき、家に無断で上京した。

国学、英語を学び、仏教運動家 大内青巒(おおうち せいらん)の「明教新誌」の編集者として従事、続いて三宅雪嶺(みやけ せつれい)の「日本人」の編集陣に加わった。さらに「三河新聞」、「台湾日報」の記者として独自の見かたを示し活躍した。
1898(明治31)年32歳のとき「萬朝報」主筆、1900(明治33)年34歳で「大阪朝日新聞」論説担当を歴任、この間南北支那満州、朝鮮各地を視察し、日露戦争では開戦論を主張した。

その後、外務省嘱託をへて、1907(明治40)年41歳のとき、同郷の碩学(せきがく:修めた学問が広く深い人)狩野亨吉(かのう こうきち)により、京都大学東洋史講座開設に伴い迎えられた。1909(明治42)年43歳で教授となり、1926(大正15)年60歳定年まで「東洋史学」を講じるとともに、京都帝国大学における東洋史学の基礎を築いた。1910(明治43)年44歳で文学博士になった。

当時、国立の大学は、東京帝国大学しかなく、ともすれば官吏養成の機関に傾きがちであるという反省から、「純粋に学問と教育のため」というイメージと理念が京都帝国大学の発足にあたって求められた。

京都帝大初代文学部長 狩野は、学問のみならず全てに独創性を重んじた。湖南は、学者としてほとんど無名で学歴も師範学校卒だったが、京都帝大への起用は、まさに人事の独創的事歴であるばかりでなく、湖南も全身独創の人物だった。

1910(明治43)年7月、敦煌文書の調査に狩野君山、小川琢治、浜田青陵と共に北京に赴き、我が国「敦煌学」の基礎を作った。また、「金石文」に詳しい羅振玉、王国維らが辛亥革命の動乱を避け日本に来て京都に僑居(きょうきょ:仮に住むこと)するに際し、湖南はその中核として力を貸した。

湖南は、満蒙、朝鮮を視野に入れ、文学・絵画史も含めた幅広い中国史を展開し、独自の時代区分や多くの史論を示すなど、「内藤史学」と称される、東洋史学・日本史学の新しい学風をおこした。
東アジアの歴史と文化の解明に天才的な能力を発揮したが、とくに中国史発展のすじ道を明らかにした点は画期的。

湖南は単に過去のみを追う学者ではなかった。清末一民国と近代化に向って苦悩する中国の現実を直視し、中国の進路は、数千年の歴史の巨大な流れに沿って考えるべきことを主張した。その的確な中国論は、巨視的な史論に支えられて、国内外に多大な影響を与えた。

東洋史学」という学問は、明治の後期まで依然として江戸時代の古色蒼然(こしょくそうぜん:いかにも古びた)とした「漢学」の殻を引きずっていた。湖南は在来の漢学を一変させ、人文科学的な「シナ学」(当時の呼称、現在では中国学)に改革した。

湖南の人となりは、気宇豁大・博学にして見識に富み、詩書共に巧みで、殊に後進の育成に努め、門下に多くの偉材が輩出した。
著書は『支那論』(1914)、『清朝史通論』(1944)など多数ある。

内藤湖南は、東洋史学の学者で、特に中国史において画期的な見方を提唱したが、もともとは新聞記者で学歴も乏しい。たまたまだが、同郷で彼を見抜き抜擢した狩野の存在は大きい。今ではこのような人事はありえないし、よって、湖南のような画期的な説を提唱する人も出ないということかもしれない。

企業においては、狩野と湖南のような組み合わせは、多分にありえることで、これにより企業が大きく脱皮し、発展する。リスクもあるが、やらない損失の方が大きいのではないか。


内藤湖南のビデオ
  学問と情熱 6 内藤湖南[ビデオ]


内藤湖南の本
  日本文化史研究(上) (講談社学術文庫)(下)
  東洋文化史 (中公クラシックス)
  内藤湖南全集〈第1巻〉(第14巻)
  竜の星座―内藤湖南のアジア的生涯 (中公文庫)
  内藤湖南の世界―アジア再生の思想
内藤湖南全集〈第1巻〉東洋文化史 (中公クラシックス)日本文化史研究(上) (講談社学術文庫)