それでいいのだ

山川健次郎

きょうは白虎隊から東大総長になった物理学者 山川健次郎(やまかわ けんじろう)の誕生日だ。
1854(安政元)年生誕〜1931(昭和6)年逝去(77歳)。

若松城下本二之丁(現 福島県会津若松市東栄町)に会津藩士 山川尚江重固(なおえしげかた)の12人兄弟の三男として生まれた。8歳から藩校「日新館」に学び、14歳のとき藩の軍制改革により「白虎隊」に編入されるが、年齢が一つ足りないのと学問に専念させるという藩の意向で、一旦は除隊した。

その後、藩命でフランス語を学ぶが、城下に戦火が及ぶと籠城戦に加わった。開城後、猪苗代に謹慎中に重臣評議の結果 逃がされ、会津藩士 秋月胤永(かずひさ)の手配で、長州藩士 奥平謙輔(けんすけ)を頼り新潟へ逃れた後、1869(明治2)年8月 奥平とともに東京へ出た。
前原一誠(参議・兵部大輔)の書生となるなど貧窮の中で苦学し、漢学・英語・数学などを学んだ。
健次郎は、1870(明治3)年 北海道開拓使の推挙でロシアに留学した後、1871(明治4)年17歳のとき北海道開拓使の枠で政府のアメリカ留学生に選ばれた。エール大学付属のシェフィールド理学校で物理を学び、21歳で日本人として初めて学位を取得した。

会津の敗北は理学が足りなかったからだ」と反省した健次郎は「理学(科学技術)」の専攻を決意し、語学の壁を超え、孤独と貧窮に耐えて勉学に励み、4年間の米国留学生活で学位取得までやり遂げた。

この米国留学は、途中で明治政府の財政が逼迫したため学費が出なくなってしまった。しかし現地で知り合いのアメリカ人が「帰国後、日本のために頑張るなら」という条件付きで学費を出してくれたため、彼は無事にエ一ル大学を卒業、1875(明治8)年帰国した。

帰国後は、22歳で東京開成高校の教諭になった。この年「萩の乱」が起こり、健次郎をかわいがった奥平は前原とともに斬罪に処せられた。西南戦争が起こるのはその翌年であり、頑強な薩摩軍に対抗するため健次郎の兄など多くの旧会津士族が集められ戦いに投入された。

開成高校東京大学に改組されると、25歳で最初の物理学教授となった。1877(明治10)年12月には日本で初めてアーク灯の点灯実験をおこない、1882(明治15)年には白熱灯の点灯、1896(明治29)年にはX線の実験をするなど、世界の最先端の技術を学生達に呈示し続け、物理学教育の基礎を築いた。

欧米を見習った近代国家をつくるため、明治政府の国家的な課題が、それを担う人材の育成だった。旧幕府の学問所や研究所は、改組統合しながら、開成高校は1877(明治10)年に東京大学となり、1886(明治19)年の帝国大学令で、東京帝国大学などの国立大学の設置が進んだ。

健次郎は、1889(明治22)年に日本で最初の理学博士となり、1901(明治34)年47歳で東大総長となった。1905(明治38)年には、政府を非難した教授が処分を受け、教授たちが大学の自治を求め決起する事件(戸水事件)が起こった。健次郎は、自ら辞任することで混乱を治めたが、政府の過剰な干渉を退け大学の自治と独立を守った人と評価されている。

その後、明治専門学校(現 九州工業大学)の総長となり、さらに九州、東京(再選)、京都(兼任)の各帝国大学の総長を務め、東京物理学校(現東京理科大学)や東北帝国大学の創設にも尽力した。

九州帝国大学初代総長就任時、400名の学生を前に演説し、「試験のためでなく学問のために学問すること」「自ら研究する精神を尊ぶ」「多方面に趣味と知識を有する人格養成」など現在も生きる建学の精神を説いた。

揺れ動く大学教育の維持に努力、創設間もない近代日本の教育制度の維持と発展に力を尽くし、明治の教育界の重鎮となった。また1904(明治37)年 貴族院議員を経て、1915(大正4)年 男爵、1923(大正12)年 枢密顧問官となった。

健次郎は「人を育てた」。一つのことを成し遂げると、それを弟子たちに譲った。弟子の方がいつの間にか有名になった。「それでいいのだ」と健次郎は考えた。清廉潔白、質素で謙虚な生き方を貫き、小石川初音町の破れ借家に住み続け、その借家には常に会津の青年が書生として居候していた。

健次郎は、育英のため「会津学校会」の設立や、上京して就学する会津の学生のための寮「至善寮」の建設など、人材の育成に力を尽くした。さらに、兄 浩が残した「京都守護職始末」を完成させ、「長州藩は勤王倒幕、会津藩は勤王佐幕」として、維新史上で四面楚歌だった幕末における会津藩の立場を明らかにした。

若年時の尋常ならざる経験と苦労のなかで出会った人々は、山川健次郎の胸の底に生き続けていた。その晩年の風貌は質実剛健、古武士の風がある一方温情漂い、接する者に感銘を与えた。
彼は会津武士であることを終生片時も忘れることはなかった。

企業においても、会社の内外でいろんな人との出会いがあるが、良し悪しは別として、少なからず影響を受けているわけであるから、直接かかわりの無い部署などに変わっても、感謝の気持を忘れずにいたい。挨拶はきちんとし名前も忘れないようにしたい。


山川健次郎の本
  山川健次郎伝―白虎隊士から帝大総長へ
山川健次郎伝―白虎隊士から帝大総長へ