ただちに実行

油屋熊八

きょうは別府温泉を開発したアイデアマン 油屋熊八(あぶらや くまはち)の誕生日だ。
1863(文久3)年生誕〜1935(昭和10)年逝去(71歳)。

愛媛県宇和郡三崎宇佐田に大きな米問屋 油屋正輔の長男として生まれた。姉二人、弟一人の兄弟にも恵まれたが、いずれも幼くして亡くなった。熊八は寺子屋から私塾に学ぶ程の秀才だったが、15歳頃から父を助けて家業に専念、早朝から深夜まで自分で俵を担ぎ米を計る仕事に励んだ。

米を計るには枡(ます)を使用するが熊八は両掌ですくって枡代わりにして仕事の能率を上げていた。
「頭のいい子だ」熊八の仕事ぶりを見たお客たちは感心した。あらかじめ両掌ですくった米を枡で計り、大体 頭で計算して置き、忙しい時は枡を使わず両掌で計った。
しかもお客様にサービスとして量を少し多めにサービスしお米を売っていた。熊八は身長157センチだったが、掌の平(ひら)は人よりもずば抜けて大きかった。その大きさは明治の大横綱 常陸山の掌と同じぐらいだった。

1888(明治21)年25歳でユキと結婚した。熊八は、1889(明治22)年26歳の時、すでに朝鮮米調査のため朝鮮各地を視察し、さらにその年、宇和島が町村制施行で宇和島町になったときの第1期 町会議員にも当選した。

町議の中でも最年少組だった。ちっぽけな町の町議でありながら米の輸出税全廃運動を政府に働きかけて成功するなど活躍は目覚ましく、宇和島の新聞創刊にも中心になって働くなど才気は多方面に及んだ。

愛媛県人は他県に出稼ぎに行く人が多いことで有名な土地で、「別府に行って一儲けしたい」と言う連中のなかで熊八は「おれは温泉などに浸かっている"年“ではない、儲けるのなら大阪だ」と言って、別府温泉の反対の方向の大阪へ向かった。

それも出稼ぎのような、みみっちいものではなくて、大阪北浜 "米“相場師として大阪に本店、東京に支店を置き、小柄でずんぐりした体格だが、米相場をリスのように素早く駆け回る、堂々とした一流の米相場師だった。熊八このとき30歳。

1894(明治27)年の日清戦争の中で、彼の勘と度胸のよさは、一夜にして当時の金で60万円儲けた。今の金にすると10億円くらい。東京と大阪の儲け頭として『油屋将軍』の名を東西にうたわれたのはこの頃である。

相場の恐ろしさを忠告する先輩もあったが、巨万の富を手にしてもそれまでの熊八と少しも変わらず男度胸の一本勝負だけが喜びで相場を張り続けた。
しかし、日清戦争後の財界のパニック的な激動が熊八の足をすくった。彼は一夜にしてすべての富を失ってしまった。

巨万の富を失った熊八は、並みの相場師の末路のしめっぽい物語りに終わるような人間ではなかった。
「これからアメリカへ行く」、熊八は隣町にでも行く調子で気落ちしている妻 ユキに言った。「えっ、アメリカ?」ユキは呆然(ぼうぜん)とした。さすがの油屋将軍も今度の大敗で頭がおかしくなったのか、ユキは一瞬そう思った。だが胸を張って言う主人 熊八の言葉にうなずいた。

アメリカは今、日本人の人手を欲しがっている。それも高賃金だ。アメリカで働いて見返してやる」、その口調には人生の敗残者とは思えない力強さがあり、希望に満ちた開拓者の気概があふれていた。

熊八は、体の余り丈夫でないユキに「保養を兼ねて別府の宿屋にでも行っておれ。3年経ったら必ず帰ってくる」と約束した。神戸までの旅費がやっとの熊八は翌日、貨物船のボーイとして横浜経由のアメリカ行きの船に乗り込んだ。

船が日本を離れたとき頼み込んだ。「おれは密航者ではない。アメリカへ着くまでこの船で、船賃として応分の働きをしたい。働きが悪かったら太平洋へ密航者として投げ込んでくれ。それが寿命ならそれも仕方がない」

サンフランシスコへ上陸した熊八は、日本人無宿者が一度はたどるパターンをたどった。食堂の皿洗い、ホテルのボーイ、キャバレーの客引き等々の時、ヤクザに絡まれて危うく命を落とすところを、三谷という日本人牧師に助けられた。

「密航者として処罰をされず、又、今回、牧師さんに命を救われた」と二度も命を助けられた思いの熊八は1900(明治33)年37歳の時、クリスチャンとして洗礼を受けた。アメリカでの3年間の生活が熊八を大きく成長させた。

熊八は帰国後、相変わらず米相場に首を突っ込み、鳴かず飛ばずの生活を送っていた。そんなある日、熊八の脳裏にハッとひらめいたことがあった。
クリスチャンとして学んだ聖書の一部で"神は今に至るも働きたまう、われもまた働くなり“『旅人には真心を持って迎えよ』だった。

女手一ツで宿屋(のちの亀の井ホテル)を営むユキに思いを馳せた熊八は、「ユキも自分で宿屋を経営するようになったのか」、熊八は微笑ましかった。熊八の脳裏には再び聖書のことばがよみがえった。

熊八が別府町へ第一歩を記したのは、1911(明治44)年10月1日で48歳の時だった。ひなびた温泉町別府では彼を、いわゆる中年の"よそもの“扱いにして、熊八が何かやろうとすると白い目で見て阻害した。

"ぬるま湯“的な旧態依然の宿屋経営者たちに天真爛漫(らんまん)な熊八の血は騒いだ。もっとお客様を呼び込む努力と工夫をしなければ別府町は温泉と言う宝の持ち腐れに終わってしまう。
その頃、お客さんのほとんどが、「地獄めぐり」をしていたが、道路事情が悪く貸切馬車だったため値段も高かった。

そこで熊八は、県庁にお願いに行き道路を作ってもらった。そして1928(昭和3)年から、バスに若い女性のガイドをつけて「地獄めぐりバス」とし、安い値段で「地獄めぐり」ができるようにした。

ガイドは、16歳以上20歳未満、未婚で高等女学校卒業程度、体格、音声、素行、容姿などの条件を満たした「美人車掌」だった。しかも、案内はすべて七五調の名調子。それまでは考えもしなかった新しい観光のスタイルに人々は列を作り、初日には500人の乗客があった。日本で最初のバスガイドは日本中から客を呼んだ。

無尽蔵に吹き上げる地獄の噴煙のように彼のアイデアは沸いて出た。
湯布院などの開発や別府ー湯布院ー阿蘇山ーを結ぶ観光道路の開発、富士山の頂上に「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」というノボリを立ててPRをした。

さらに、新聞記者・作家等を招待したり、毎年5万通の年賀状を手書きで書いたり、ゴルフ倶楽部を作ったり、温泉マークを考案したり・・・。
「ユニークな話題を提供して、多くの人を集める」、これは観光振興の鉄則である。自分で思いついたことであれ、人からのヒントであれ、「いける」と思ったら、「ただちに実行」に移したのが熊八だった。

1931(昭和6)年の夏枯れ期に、『全国大掌大会』を開いた。この珍しく風変わりなイベントに多くの新聞社が宣伝してくれて、別府温泉と亀の井ホテルが全国的な話題になった。大会の行司には、股旅小説で知られ、やはり掌が大きかった人気小説家 永谷川伸が務めたことも話題を呼んだ。熊八は20位だった。

大掌大会は見事に成功、熊八自慢の墨手形を求める希望が全国から殺到しはじめ、1935(昭和10)年に他界するまで、この手形配布数は5千枚に達し、別府の宣伝に大きな役割を果たした。

「卓越したアイデア、すばらしい行動力。」観光振興にはこの二つの要素を兼ね備えた人材が欠かせない。その人材こそ、大正から昭和のはじめにかけて、別府温泉を日本全国からせ界へと売り込んだ油屋熊八だ。陰で支えた妻 ユキの存在は見逃せない。

企業においても、アイデア(企画)と行動力(実行)は重要であり、会社も人もこの良し悪しで決まるといっても言い過ぎではない。


油屋熊八に関する本
  別府温泉郷 るるぶグラフにっぽんの温泉の本
  九州発 1 別府温泉・湯布院・阿蘇やまなみハイウェイ (ニューパスポート夢紀行)