多くは亡くなってから

國木田獨歩

きょうは明治の小説家で詩人 國木田獨歩国木田独歩 くにきだ どっぽ、本名:哲夫)の誕生日だ。
1871(明治4)年生誕〜1908(明治41)年逝去(36歳)。

千葉県銚子に生まれた。裁判所役人の父親の仕事の関係で、幼・少年期を、山口県岩国で過ごした。山口は、明治維新の逸材が多く輩出した地で、獨歩も吉田松陰等に傾倒し、政治的な志向が強かった。しかし、性格的に政治的な行動、思考に馴染めず、文学的志向を持った。

中学校を二年で中退の後、上京し、1887(明治20)年16歳のとき東京専門学校(現 早稲田大学)英語普通科に入学し、のちに英語政治科へ転じた。在学中に、植村正久牧師からキリスト教の洗礼を受けて敬虔な信者となったが、学生運動に関係して1891(明治24)年20歳の時に中退した。
1893(明治26)年22歳の時、父親の退職から家計を支える必要に迫られ、新聞記者 徳富蘇峰(とくとみ そほう)の紹介で大分県佐伯市の鶴谷学館の教頭に赴任したが、その言動から排斥運動が起こり、約1年後、佐伯市を退去した。
この佐伯での生活が獨歩の自然主義的な表現に大きく影響している。

「都より一人の年若き教師下り来りて佐伯の師弟に語学 を教ふること殆ど一年、秋の中頃来りて夏の中頃去りぬ」で始まる『源叔父』をはじめ、『鹿狩』『春の鳥』『小春』『忘れえぬ人々』など、佐伯に取材した獨歩の作品は多い。

その後暫く職を求めて各地を転々としながら雑誌の編集や教職で生計を立て、再び上京した。1894(明治27)年23歳のとき日清戦争が起こり、国民新聞記者として軍艦 千代田に乗船して従軍した。新聞に連載された従軍記「愛弟通信」が人気を博した。

帰国して、佐々城信子(有島武郎或る女』のモデル)と知りあい、周囲の反対を押しきって恋愛結婚するが、半年で離婚した。彼が亡くなった後 発表された手記「欺かざるの記」がその間の事情を伝えることとなった。その後「国民之友」や「近事画報」の編集をする傍ら執筆活動を続け、1897(明治30)年26歳の時、処女小説『源叔父』を発表。浪漫的抒情文学に新風を吹き込んだ。

1898(明治31)年27歳の時、榎本治と結婚した。
1901(明治34)年30歳の時『武蔵野』を発表し評価された。しかし貧窮の生活が続いて健康を害し、島崎藤村と並ぶ新時代の文学の担い手(にないて:中心となってすすめる人)と目されながら結核に倒れた。36歳で亡くなった。

獨歩の作品は、初期の抒情的ロマン主義から、後年、自然主義へと進んでいった。優れた性格描写と民衆の視点に立った社会批判が特徴の独自の作風を築いた。「自然主義の先駆者」と称されその文学史的位置はきわめて大きいが、文壇で注目を集めたのは晩年になってからだった。その作品が正当に評価されたのは、病に倒れた以降、多くは亡くなってからだ。

國木田獨歩は、36歳という短い生涯の中で、ほとんどは認められないまま貧しい生活を送っている。短いながらも波乱の人生で、その時そのときを精一杯生き抜いている姿は、彼のことばからもうかがえ、感動させられる。

企業においても、その人がいなくなって初めてその存在価値がわかるような人がいるが、できる人というのは本来そういうものかもしれない。とかく目立つ人というのは、中味の薄い人が多いようだ。


國木田獨歩のことば
  「実行せざる思付(おもいつ)きは空想と称し、又た妄想と称す。
   もし空想妄想の中に生活して自ら知らずんば、意外の失望 苦痛を来たさん。
   故によく「実行」と「思付」との境界を立て置き、時々点検すべし」
  「酒の元気に気炎を吐く者は卑怯なり。気炎はシラフにて吐け。
   酒にはただ酔わんことを思うべし」
  「汝の真面目を誇るなかれ、
   真面目という心持は大して値打あるものにあらざるなり」
  「僕はただ一つ不思議な願いを持っている。
   恋愛でもない、大科学者・大哲学者・大宗教家になることでもない。
   理想社会の実現でもない、結局それは喫驚(びっくり)したいという願いだ」


國木田獨歩の本
  武蔵野 (新潮文庫)
  牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫)
  牛肉と馬鈴薯―他3編 (岩波文庫 緑 19-2)
  国木田独歩論―独歩における文学者の誕生
  国木田独歩―短編小説の魅力

国木田独歩―短編小説の魅力国木田独歩論―独歩における文学者の誕生