討死の覚悟

緒方洪庵

きょうは適塾を開いた蘭医学者の第一人者 緒方洪庵(おがた こうあん、本名:章、号:洪庵、適々斎)の誕生日だ。
1810(文化7)年生誕〜1863(文久3)年逝去(52歳)。

備中の国足守藩(現 岡山県岡山市足守)に藩主 木下侯に仕える藩士の3男1女の末子として生まれた。1825(文政8)年 父が大阪蔵屋敷留守居役になったとき、父に従って大阪へ出た。翌年16歳のとき、「武士の子は武士になれ」という父の願いに背いて、蘭学者 中天游(なか てんゆう)の塾「思々斎塾」に入り西洋医学の基礎を学んだ。

次いで江戸に出て坪井信道、宇田川玄真(げんしん)に学び、さらに1836(天保7)年26歳の時、蘭学を学ぶため長崎へ遊学した。この頃から「緒方洪庵」と名乗った。長崎ではオランダ人医師 ニーマンのもとで医学・医術の深奥(しんおう:非常に奥が深いこと)を極め、2年後の1838(天保9)年に帰阪した。
帰阪後すぐに、瓦町で医業を開き、同時に師 中天游の「思々斎塾」にあやかって、「適々斎塾(適塾)」という名の蘭学塾を開き、後進の教育にあたった。

この年の7月に、洪庵は天游門下の先輩である億川百記の娘 八重と結婚した。洪庵28歳、八重16歳。八重はやさしくて物静かな女性であり、終生、彼を助け、塾生たちからも母のように慕われた。のち6男7女をもうけた。

この時期、前年1835(天保6)年に大坂で「大塩の乱」が起こり、市街の主要部が灰燼(かいじん:燃えて跡形も無くなること)に帰し、徳川封建社会が崩壊してゆく転換期であった。

洪庵の名声は高く、開業2年目には早くも浪花医者番付で東の前頭4枚目になり、ついで最高位の大関になっている。「適塾」の評判もよく、入門者も多くなり、手狭となったため、7年後の1845(弘化2)年35歳の時には過書町(現 大阪市中央区北浜)に町家を購入して移転した。
この2階建ての民家が今日、史跡・重要文化財に指定されている「適塾」であり、現存するわが国唯一の蘭学塾の遺構である。

適塾」には、オランダ語を介して西洋の事情や兵学を知ろうとする者が全国から集り、門下生は 千人をこえ、そのなかから橋本左内大村益次郎福沢諭吉大鳥圭介箕作秋坪村田蔵六、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、その後の日本を支えた人材が多く輩出した。

洪庵は、医師・医学者としても活躍した。1849(嘉永2)年39歳の時、古手町(現 大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き牛痘種痘法による種痘を始めた。
当時の人々は牛からとれる牛痘(ワクチン)を気味悪がって、「除痘館」に足を向けなかったが、彼は牛痘の効果をわかりやすく解いた絵入りのビラをつくり、その重要性を人々に訴え、その重要性が認められるまで、無料で予防接種をした。

さらに、1858(安政5)年にコレラが大流行したときにも、当時長崎へ来ていたオランダの医師が書いた本のコレラに関係した部分を訳し、これに自分の意見を加えたものを「虎狼痢治準」と題して出版し、医師たちに配布するなど、日本医学の近代化に努めた。

1862(文久2)年52歳の時、幕府の強い要望で幕府の奥医師(おくいし:将軍や奥向きの人の診療にあたった医者)兼西洋医学所頭取として、江戸に召し出された。「医学のため、子孫のため、討死の覚悟」で大坂を離れたという。
しかし、さまざまな無理がたたって、それからわずか10ヶ月後、1863(文久3)年53歳の時、江戸の頭取屋敷で大喀血して倒れ、亡くなった。

緒方洪庵は、「適塾」で日本を代表する優秀な人材を育てあげると共に、地域の人々に献身的な医療を施している。人柄は温厚でおよそ人を怒ったことが無かったという。

企業においても、「教育」は重要なテーマであり、「地域」への貢献も企業のあるべき姿である。ただ、どちらも形としては取り上げられているが、「する」ことが目的になって「成果」が出ていないようだ。いまいちど、洪庵の気持ちになって、何をどのようにしたらいいか、考えてみたい。

適塾★
塾は、基本的には塾生による自治と自習にまかされていた。入門した塾生は、まずオランダ語を学んだ。学力に応じておよそ10クラス(1クラス10〜15人)に分けられ、毎月6回の会読テストの合計点で3か月連続上席を占めると、上のクラスに進むことができた。
  【会読:かいどく】数人が集まり、同じ書物を読み合って、
   その内容や意味を研究し、論じ合うこと 

最上級の塾生だけが、洪庵の直接主宰する会読に出席できた。会読の範囲はあらかじめ決められていたが、その予習のさいに他人に質問することは堅く禁じられていた。このため、塾生は独力で勉強しなければならなかった。
塾生たちが頼りとする蘭和辞書は『ズーフ・ハルマ』1セット2冊だけであり、それは「ズーフ部屋」とよばれる部屋の机の上に置かれていた。このために、会読の日が近づくと、ズーフ部屋は人の山となった。
塾生たちは、「この辞書をひとり占めして原書を読むことができたら、天下の大愉快だろうな」と言い合った。

適塾には、一時に約100人の塾生がいた。そのうちの半数は塾外から通い、残る半数の約50人が塾に寝泊まりしていた。
塾の2階が寄宿舎で、28畳だった。隣の10畳は会読に使われ、夜は寝室になった。合計40畳足らずで、寝泊まりするので、1人あたり1畳にもならない。そこに机や寝具を置いて寝起きしていた。
寝る場所の選択は成績順で、月に1回ずつ席替えされた。風通しと採光がよく、寝ていても人にふんづけられない良い席は、成績のよい連中がとった。「いい場所で寝たいなら勉強しろ」というわけだ。

緒方洪庵のビデオ
  学問と情熱 4 緒方洪庵[ビデオ]


緒方洪庵の本
  緒方洪庵と適塾
  緒方洪庵の蘭学
  緒方洪庵と大坂の除痘館
  緒方洪庵の妻
  禁書売り―緒方洪庵・浪華の事件帳
禁書売り―緒方洪庵・浪華の事件帳緒方洪庵と大坂の除痘館