類をみない独特なもの

石井茂吉

きょうは写植機を発明し写研を設立した印刷技師 石井茂吉(いしい もきち)の誕生日だ。
1887(明治20)年生誕〜1963(昭和38)年逝去(75歳)。

東京王子の米穀商の家に生まれた。東京帝国大学機械工学科を卒業後、神戸製鋼に勤めていたとき、星製薬(作家 星新一の父 星一が創業)が出した高級技術者募集の新聞広告を見て応募し、選ばれて1923(大正12)年36歳の時に入社した。

そこで印刷部主任をしていた森沢信夫は、学識者の石井に印刷機についての発明の構想を語り相談しているうちに、石井との信頼関係ができ、石井はこの発明に少なからぬ興味と関心をよせるようになった。石井は1924(大正13)年退社して、家業の米穀商を営んだ。
森沢は特許がおりた「写真植字機」の発明を実現に移すべく、1924(大正13)年の暮、石井に他2名を加えた4名での協同事業契約書に調印した。
そして試作プロトタイプ機が、1925(大正14)年10月、学士会館で公開され、大きい反響を呼び新聞、雑誌に大発明として紹介された。

森沢と石井は、石井家の資金力を背景に、1926(大正15)年 、「石井写真植字機研究所」を設立した。
実用機第1号が1929(昭和4)年10月、共同印刷に納入され、つづいて東京、大阪の大手5社に入った。しかし、これは大手印刷会社が半分は義理で購入してくれたもので、ほとんど実用的でなく、その後需要は途絶した。

実用機の完成まで、機械本体と機構は森沢の創意と努力により、文字板とレンズ系は石井の苦心によって、唇歯輔車(しんしほしゃ:密接な関係にあり互いに支え助け合っていること)の関係を保ちながら事業は進められた。

しかし、肝腎の機械が売れないために、経営について責任を負うことを契約した石井家の経済を圧迫した。その窮迫時代、2人の事業を支えるために、石井夫人は惨憺たる苦労を続けたようだ。

一方、世間の2人に対する評価において、真の発明者である森沢はつねに軽視された。そして工学士 石井の肩書の蔭に森沢の存在はかすんだ。このような外部の評価に傷ついた森沢は、経済の逼迫とともに協同事業の推進に絶望した。

そして1933(昭和8)年の春、森沢は石井と訣別した。森沢はのちに「モリサワ」を創業した。
「石井写真植字機研究所」は、後に「写研」となり、日本の印刷・出版業界をリードする企業に育っていくことになる。

写植時代の開花は、大戦後爆発的な形で現われた。オフセット印刷の大波涛に乗って、それまでほとんどかえりみられなかった写真植字機が、一躍時代の寵児となった。その新時代の盛況は誰も予測できなかった。

日本の写植機は、初期のそれとは隔世の感があるほど進化している。しかし、基本的な機構は、森沢の創意を踏襲している。それは外国にも類をみない独特なもので、「写真植字」という概念こそ外国からの借物であれ、具象化された機械そのものは、外国人の知恵に負うところは少しもない。

「写真植字機」という偉業をなしとげた森沢と石井は、ともに栄誉をもって、また経済的に報われている。発明の功績により森沢は、1971(昭和46)年、民間産業功労者としては数少ない勲3等瑞宝章を下賜されたほか、印刷文化賞などいくつもの褒賞をうけている。

石井は1960(昭和35)年73歳の時、写植機の文字の製作に対し菊池寛賞を受けた。1963(昭和38)年75歳で亡くなったが、生前の功労により従5位勲5等に叙され、石井翁とも呼ばれた。

また、森沢、石井の業績はドイツの、グーテンベルク博物館に認められ、彼らが創り上げた模型、実用1号機、そして最近の写植機の写真を並べた3つのパネルが、1980年フォトン1号機などがおかれている部屋の壁に掲げられている。

石井茂吉は、共同特許で写植機を発明、これに独自の書体を組み合わせて製品化し、爆発的にヒットさせている。印刷の需要という世の中の大きな流れにうまく乗ったということだが、それに見合う努力もしている。

企業においても、世の中の流れに乗ることは重要であるが、小さな兆候を見出し準備をしておかないと、大きな流れになってからではおぼれてしまう。そのためには、いろんな流れに対応できるようにしておくことも必要で、そのなかで軽重をつけ、フレキシブルに対応できるようにしておけばよい。

タイポグラフィタイポグラフィー 【typography】:印刷の体裁上の、文字の書体・大きさ・配列の仕方など視覚効果の総称したもの。

石井は自分自身で文字のデザインともいえるタイポグラフィも手がけ、むしろその方面での評価が高い。彼の手になる「石井明朝体」「石井ゴシック体」など数々の「石井書体」をはじめとして、写研の書体 (フォント )の質の高さは彼以来の伝統であり、DTP(DeskTop Publishing:パソコンによる印刷・出版)の怒濤の普及の中で、高価な写研の独自仕様のシステムが戦っていられるのは、組版品質の高さ以上に、外部に開放しなかったその高品位の書体のゆえである。

現在、市販されている漫画 は大抵、吹き出し 部分の台詞が、漢字はゴシック体 、平仮名・片仮名はアンチック体(antique:アンティークの意)で組まれている。多くの場合において、このゴシック体が「石井ゴシック」である。

石井は、1951(昭和26)年、大修館書店の鈴木一平より『大漢和辞典』(編:諸橋轍次 6月4日参照)を刊行するために使用する文字(写植原字)の製作を依頼された。この大著を印刷するための版が、空襲で失われてしまっていたためである。彼は病気を理由に断るが、最終的に承諾した。
独力で47500字におよぶ写植原字を3年という猛スピードで書き上げ、文化的にも大きな足跡を残した。この業績に対して1960年 菊池寛賞が贈られた。

のちに写研では彼の名を冠して「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」を設け、優秀な書体を写植文字盤として発売することとした。この賞からは「ナール」や「スーシャ」などの書体が生まれ、受賞者たちはそれぞれ、その後の日本のタイプフェイスデザインを引っ張っていく存在として成長した。



石井茂吉に関する本
  字の見本帳―文章を美しく見せる書体のスタイルブック (ゴマブックス)
  日本のタイポグラフィ
  タイプフェイスとタイポグラフィ
  写植ノート (デザインハンドブックシリーズ)
  印刷機械入門