強いものは必然的に

堀越二郎

きょうは「零戦」を設計した航空機設計者 堀越二郎(ほりこし じろう)の誕生日だ。
1903(明治36)年生誕〜1982(昭和57)年逝去(78歳)。

群馬県に生まれる。一高を首席で卒業、1927(昭和2)年2月、東京帝國大學工学部航空学科も首席で卒業した。三菱内燃機製造株式会社(現 三菱重工業)入社。名古屋航空機製作所に勤務した。

1929(昭和4)年26歳の時、一年間 イギリス、アメリカ、ドイツの航空機会社を視察し、ドイツのユンカース社、アメリカのカーチス社で航空機の機体設計を研究した。

海軍の設計主務責任者として、七試艦上戦闘機九六式艦上戦闘機(九試単戦)、零式(れいしき)艦上戦闘機(十二試艦上戦闘機ゼロ戦)、雷電、烈風と数々の名戦闘機を設計・開発した。
七試艦上戦闘機1号機が急降下試験中に尾翼が飛散し木曾川河原に墜落、1ヶ月間10円の減俸処分を受けた。
1939(昭和14)年4月1日35歳のとき、十二試艦上戦闘機零戦」が初飛行した。6月5日、十二試艦上戦闘機昇降舵操縦系統の第1次剛性低下を実施、他の用事があったため、各務原(かがみがはら:岐阜県)での試験飛行には部下の東條輝雄技師を送ったが、操縦士の志摩勝三が試験飛行を拒否したため東條に電話で呼び出された。

1940(昭和15)年3月11日36歳の時、十二試艦上戦闘機零戦」の2号機(操縦 奥山益美)が墜落、堀越は3月12日 横須賀の航空廠に出頭することになった。しかし、その後の改善で「零戦」はすばらしく美しく、強い戦闘機になった。

日本人がもし一部の人の言うような模倣と小細工のみに長けた民族であったなら、あの「零戦」は生まれえなかった。独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本人の血の通った飛行機」それが「零戦」であった。

零戦」は美しく、強かった。いやむしろ、強いものは必然的に(機能的な)美しさを持つというべきかもしれない。「零戦」は、近代から現代にかけて日本人が創り出した技術品の中でも最も優れたものと言える。これだけのショックを欧米先進国に与えたものは他に見当たらない。

堀越は、太平洋戦争後、工学博士号を取得した。その後、新三菱重工業 技術部次長として、初の国産旅客機「YS11」の設計に参加した。

1962(昭和37)年 日本航空学会会長、1963(昭和38)年60歳で三菱を定年退社した。その後、東京大学宇宙航空研講師、日本大学講師、防衛大学校教授を歴任した。

堀越二郎は、優れた才能と努力により、「零戦」を作り上げたが、その改良にあたっては、海軍首脳陣の判断ミスもあり、敗戦を迎えてしまう。やはり、いくら「いいモノ」ができても、その改良ができないと結局失敗に終わってしまうことが多い。

企業において、生産工程や事務合理化の改善がうまくいっても、それで満足してしまうと、いつのまにか採算が合わなくなってしまう。改善に終わりは無い。

★★ゼロ戦★★
●『呼び名』
「零戦」(ゼロ戦)は「零(れい)式艦上戦闘機」のことで、太平洋戦争前から敗戦まで5年にわたって日本海軍のエース機であった。
紀元2600年(昭和15年、西暦1940年)に制式(定められた様式)化されたもので、略称としては「零戦(れいせん)」と呼ばれるべきであり、実際にもそのように呼ばれていた。

しかし、敵対していた欧米諸国から、その性能に対する恐怖と畏敬の念を込めて「ZERO・ファイター」という呼称が与えられ、「ゼロ戦」という言い方が一般化した。

●『設計・開発』
「零戦」の開発着手から完成までは驚くべき速いペースで進み、太平洋戦争開戦前にすでに中国大陸で実戦経験を積んでいた。
この点、開戦の日に間に合わなかった「戦艦大和」とは対照的である。なお、太平洋戦争開戦当時の「零戦」は540機揃っていた。

1937年(昭和12年)5月19日、計画要求案が提出された。
1940年(昭和15年)7月20日、正式に海軍機となる。
1940年(昭和15年)9月13日、中国重慶の空中戦で大勝利。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まる。

「零戦」の設計主務者は、若き堀越二郎三菱重工、当時34歳)だは、堀越の飛行機設計の経験は「零戦」でわずか3機目、三菱重工自体、飛行機製作の実績はほとんどなく、彼以外の技術スタッフも大半が20代半ばであった。

当初、設計原案は三菱重工中島飛行機(戦闘機の名門)の2社に示された。しかし、中島飛行機は、海軍のあまりに高い設計コンセプトに、「実現不可能」として競争試作から降りた。
「零戦」の成功に関しては、この海軍の過酷な要求をバランスよく取り入れて実現した堀越個人の能力をまず第一に高く評価すべきである。

●『改良』
1941年(昭和16年)12月8日、「零戦」は真珠湾攻撃に参加した。その「零戦」が戦争末期、特攻機として250キロ爆弾を抱いて敵艦船めがけて突っ込んでいった。このように「零戦」は太平洋戦争期間中、第一線で酷使され続けた。

その間に、”敵”戦闘機の能力向上はめざましく、「積乱雲とゼロ戦は避けて飛んでよい」と恐れられた優位な立場は長くは続かなかった。

「零戦」の改良も頻繁に行われたが、それらは効果的な改良ではなかった。むしろ航続距離(「零戦」の最大の特徴)は以前より短くなり、軽快性は失われていった。「零戦」は登場したときすでに改良の余地のない完成品であったとも言える。小手先の手直しに終始し、次期戦闘機の開発を怠った日本海軍首脳陣の無能と怠慢の責任は大きい。

●『判断ミス』
日本は戦前、飛行機も航空隊も、驚くべき高度成長をとげ、「零戦」の大活躍で開花したが、その後、後継機は出ないし、航空隊はどんどん消耗して弱くなった。

「零戦」の後継機開発が早い時期に実現していたら。「零戦」には、875馬力のエンジン「瑞星」が搭載されたが、堀越が使いたかった1070馬力の「金星」というもう一つの選択肢があった。
「零戦」の量産が、もう一年、早く始まっていたら。後継機開発が早い時期に実現していたら、歴史は確実に違ったものになっていた。

現実には、「零戦」の後継機は現れなかった。後継機が実現しなかった原因として、技師不足と海軍に「戦闘機無用論」が根強かったことがある。堀越は、上層部から「零戦」を改良しろと言われたり、局地戦闘機雷電」を作れと言われたりするなかで、心身ともに憔悴し、肋膜炎で寝込んでしまう。

もし、指導者たちが、「零戦」の本当の力に気づき、制空権という考え方を真に理解していたら、「零戦」の使い方、後継機への力の入れ方は、まったく違ったものになっていたはずだ。

実は「零戦」の後継機があった。それは後に「烈風」と呼ばれた機体で、しかも「零戦」の制式が決定された翌年の1941(昭和16)年に三菱に内示された。堀越が「雷電」を開発中で手が抜けなかったので、1942(昭和17)年4月から検討に入った。
ところが、ここで日本海軍首脳がよけいな注文をつけてしまった。中島飛行機のエンジン「誉れ」を使えということである。

「零戦」の開発で問題となった「金星」か「瑞星」かの紛糾が、「零戦」の次期戦闘機「烈風」の開発でも繰り返されることになった。
堀越は三菱が当時試行中であったMK9Aを予定していたが、頑迷な海軍首脳は出力不足の「誉れ」を指定した。

「烈風」の原型試飛行は内示から満2年経過した1944(昭和19)年4月になって行われた。試験飛行にはいると、予想したとおり「誉れ」は出力不足の上に故障が頻発した。
その後、MK9Aを装備すると、「烈風」は生まれ変わったようにシャンとして最大速度、上昇時間をほとんど満足させた。しかし、すでに手遅れであった。「烈風」は戦争に間に合わなかった。



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堀越二郎の本
  零戦 (文庫版航空戦史シリーズ (1))
  零戦―その誕生と栄光の記録 (講談社文庫)
  零戦―日本海軍航空小史
  零戦の遺産―設計主務者が綴る名機の素顔 (光人社NF文庫)
零戦―日本海軍航空小史