極めて振幅の大きい道程

岸田劉生「自画像」

きょうは「麗子像」の洋画家 岸田劉生(きしだ りゅうせい)の誕生日だ。
1891(明治24)年生誕〜1929(昭和4)年逝去(38歳)。

東京・銀座に薬屋の主人を兼ねた洋学者、新聞記者の岸田吟香の4男として生まれる。劉生は、東京高等師範学校付属中学を中退、洗礼を受けた。1908(明治41)年17歳で「白馬会葵橋洋画研究所」に入り黒田清輝の下で外光派を学んだ。

1910(明治43)年の第4回文展に入選するなど、はやくからその天分を示した。1911(明治44)年 「白樺」に接し、以後白樺派同人の柳宗悦武者小路実篤らと交友した。
その後間もなくゴッホセザンヌなどの後期印象派の影響を受け、また白樺派人道主義の理想に共鳴し、1912(大正元)年21歳の時には激しい自己表出を望む高村光太郎・万鉄五郎ら革新的青年画家たちと「フュウザン会」を結成し、新傾向の旗主として注目された。

「画家が他の美術に感心するのは、自然のよき見方を教えられるということだ。真心ある模倣は芸術の自然性である。古来すぐれた天才は、一面において模倣性の強い人だった」と言うように、劉生は「影響というより、露骨にゴッホを模倣した」作品を「フュウザン会」に展示した。

展覧会初日、会場を訪れた一人の女性が劉生の絵に感激しファンレターを送った。東京府立第二高等女学校在学中から、日本画鏑木清方に師事していた小林しげる(1892〜1964)である。二人の交際は次第に熱を帯びてゆき、1913(大正2)年7月に結婚、翌年4月には長女 麗子が産まれた。

しかし、「フュウザン会」の新しい表現様式に満足出来なくなった劉生は、時流を離れて北方ルネサンスの影響を受けた写実的で重厚な作風に転じ、1915(大正4)年に同志と「草土社」を興し、デューラーファン・アイクなどの北欧ルネサンスの絵画様式を手がかりに精密描写による写実を追求した。

画題も風景・人物・静物からさらに愛嬢 麗子の連作へと拡げられていく過程で、彼の写実主義は「内なる美」の表現へと深められた。
大正期後半になると宋・元画や初期肉筆浮世絵などの東洋の美にも注目し、これを自己の芸術に生かす新しい境地を目ざした。

劉生の名を高めたのが、愛娘 麗子の肖像シリーズ。いわゆる「麗子像」によって、劉生の芸術は開花した。「麗子の肖像を描いてから、僕は又一段或る進み方をした事を自覚する。今迄のものはこれ以後に比べると唯物的な美が主で、これより以後のものはより唯心的な域が多くなつてゐる」

こうした劉生の特異な画業の軌跡は、短い生涯にもかかわらず、画家として極めて振幅の大きい道程を歩んだ。それは、日本の美術における近代化の問題、すなわち西洋近代絵画の展開を追うに急であった日本の近代絵画の根本的な諸問題を、改めて浮かび上がらせるものであった。

劉生は、1929(昭和4)年 満州旅行の帰路、山口県徳山で急逝するが、その38歳の生涯を通じて最も果敢に自己の芸術を追求し、独自の画境を切り拓いた近代日本のすぐれた画家の一人であった。
著書『初期肉筆浮世絵』『劉生絵日記』『美の本体』など。

岸田劉生は、その画風においていろんな画家や様式から影響を受けながらも、最期は独自の様式に至っている。あっさりと模倣を認め、それをステップにして新境地を開いているところがすばらしい。

企業において、模倣は工業所有権に触れない限り許されて当然であり、それをベースにさらに工夫を重ねていけばいい。模倣されるぐらいの製品や方法でないと、世の中に受け入れられることはないだろう。


岸田劉生 最期のことば
  「 暗い、目が見えない、バカヤロ−」


岸田劉生の作品「麗子像」
     


岸田劉生の本
  初期肉筆浮世絵―絵入 (岩波美術書初版本復刻シリーズ)
  岸田劉生随筆集 (岩波文庫)
  美の本体 (講談社学術文庫 (701))
  父 岸田劉生 (中公文庫)
  岸田劉生
岸田劉生岸田劉生随筆集 (岩波文庫)初期肉筆浮世絵―絵入 (岩波美術書初版本復刻シリーズ)