いたって地味な存在

谷口吉郎

きょうは日本の近代建築を代表する建築家 谷口吉郎(たにぐち よしろう)の誕生日だ。1904(明治37)年生誕〜1979(昭和54)年逝去(74歳)。

石川県金沢市片町に九谷焼の窯元 谷口吉次郎の子として生まれる。石川県立師範学校附属小学校、石川県立第二中学校、第四高等学校を経て、1925(大正14)年21歳の時、東京帝国大学工学部建築学科へ入学。卒業後、東京帝国大学大学院へ入学した。

1930(昭和5)年26歳で東京帝大大学院修了後、東京工業大学講師、1931(昭和6)年 助教授になった。同年、松井絹子と結婚した。
1938(昭和13)年34歳の時、ドイツ日本大使館の庭園建設のためドイツへ出張した。ところが、1939(昭和14)年 第二次世界大戦勃発のため、アメリカを経由して帰国した。
1940(昭和15)年36歳のとき木下杢太郎らと「花の書の会」を始めた。1943(昭和18)年39歳で工学博士を授かった。同年、東京工業大学教授になった。

1944(昭和19)年40歳から、ベルリン滞在記「雪あかり日記」を書き始めた。1947(昭和22)年43歳のとき卯辰山に日本最初の文学碑「徳田秋聲文学碑」が完成。同年、島崎藤村記念堂が完成。1952(昭和27)「石川県繊維会館」(現 「金沢市教育研修館」)完成。1961(昭和36)年57歳で日本芸術院会員になった。

1963(昭和38)年「室生犀星文学碑」完成。1964(昭和39)年60歳の時「博物館明治村」が開村し、初代館長となった。谷口は、明治建築の代表作である「鹿鳴館」が取り壊される様子を山手線の車中から見て残念に思ったことが、後年「博物館明治村」の構想につながったという。金沢 四高の同級生で親友であった名鉄社長 土川元夫と意見が合い、明治村開館のために尽力した。
1965(昭和40)年で東京工業大学を定年退官。

東宮御所(1960昭和36年)、帝国劇場(1966昭和41年)、東京国立近代美術館(1969昭和44年)をはじめ、工場建築まで数多くの建築物および記念碑・文学碑を設計、戦後のわが国の建築界で指導的な役割を果たした。

近代建築のエース 丹下健三、和風建築のエース 村野藤吾とほぼ同世代だが、二人に比べるといたって地味な存在
近代性と伝統の調和の実現をめざして、「清らかな意匠」と彼自身が述べているように、清潔で叙情豊かな作品が多い。建築界にとどまらず、名文家としても知られ、活動分野は多岐にわたった。

谷口吉郎は、その作品と同様にあまり目立たない存在であるが、知る人にとってはこれほど心を打つ人・作品もないようだ。

企業においても、一般社会においても、人というのは言うことは控えめであっても本心は目立ちたがるものだが、自分を前面に出さず、あくまでも作品や業績で勝負をする人は立派だ。

谷口吉郎の作品★
●慶応義塾谷口吉郎の作品群を語るにおいて欠かせないのは、一連の慶応義塾の建築物である。
幼稚舎、普通部、中等部、女子高、大学、病院等々、塾に関するほとんど全ての様々なステージにまで、その仕事の範囲は及んでいる。
中でも、三田キャンパスを左手に入った所に見られた、「新萬来舎(しんばんらいしゃ)」(第二研究室)は、塾卒業生にとって印象に残る建物である。

その理由の一つは、「新萬来舎」という呼称に見られる。
谷口吉郎は次のように言う。
「新しい第二研究室が建つ場所は、明治の初年、福澤諭吉がそこに『萬来舎』を開設した跡だった。それは名称のごとく千客萬来、来る者はこばまず、去る者は追わず、今の言葉で言えば、広く識見を求めようとする対話の場所であった。それが戦災で壊滅したのである。だから新しく建てられる『新萬来舎』は福澤精神の新しい継承を必要とする。従って建築もそれに応じて開国的な新しい意匠でいいはずだと、私は考えた」
もう一つの理由、この空間は、谷口吉郎と世界的な日系アメリカ人彫刻家 イサム・ノグチによるコラボレーションであるということだ。

●藤村記念堂●
信州馬籠の藤村記念堂。そこにあるのは庭と塀。このできる限り何も建てないというところが、谷口の前衛たるところではないか。
わずかに建てることで、大きなものを建てた以上に人に感動を与えている。日本特有の間(ま)の芸術と言うことか。



谷口吉郎の本
  谷口吉郎著作集 (第1巻)〜(第5巻)
  建築学大系 第29 工場
  せせらぎ日記
  合目的性を超えた意匠の世界―谷口吉郎自邸
  谷口吉郎の世界―モダニズム相対化がひらいた地平
谷口吉郎の世界―モダニズム相対化がひらいた地平