雄大な構想が現実のものに

福沢桃介

きょうは「電力王」といわれた実業家 福沢桃介(ふくざわ ももすけ)の誕生日だ。
1868(明治元)年生誕〜1938(昭和13)年逝去(69歳)。

武蔵国横見郡荒子村(現 埼玉県比企郡吉見町)で岩崎紀一・サダ夫妻の6人兄弟の次男に生まれた。田畑が300坪の貧乏所帯で、おっとりした婿養子の父は野良仕事に向かず、気丈な母が開いた荒物屋も行き詰まり、能書家の父の特技を生かそうと川越に引っ越し、ちょうちん屋になった。

金持ちだった岩崎一族などの出資で八十五国立銀行ができ、父は書記になるが、岩崎一族の没落で再び貧窮した。桃介は神童の誉れ高かったが、ゲタも買えず、小学校に裸足で通った。友達に笑われ、「大きくなったら金を儲けて、今の貧乏を忘れたい」と子供心に思った。桃介のあだ名は「一億」で、「一億円の金持ちになるのだ」が口癖だった。
その才を惜しんで学問を勧める人があり、1883(明治16)年 慶応義塾に入った。桃介は眉目秀麗で背が高い。絵のうまい学友にシャツの背中にライオンを描いてもらって、運動会で颯爽と駆け回った。これが福沢諭吉夫人の目に留まり、福沢家の養子となるきっかけになった。

洋行を条件に養子縁組した。ただし、「諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女 房へ配偶して別家すること」。諭吉には4人の息子がいたので、なぜ養子かは不明。約束どおり、1888(明治21)年20歳の時 米国へ留学、ニューヨーク州イーストマン商業学校を4ヶ月で卒業すると、ペンシルバニア鉄道で実務見習いをした。

桃介が米国留学中、父 紀一が48歳で亡くなり、翌年には母のサダも夫と同じ48歳で亡くなった。帰朝後、1889(明治22)年21歳の時 結婚式を挙げ、北海道炭鉱鉄道に入社、月給100円は破格で恵まれすぎた門出だった。

ところが6年後に血を吐き結核治療のため北炭を辞職した。給料の半分を貯金していたとはいえ大した額ではなく、養子の身分で面倒をみてくれとは意地でも言えなかった。思いついたのが株で、北炭の社員で株に詳しい者からイロハを学び、才能が開花した。

千円の証拠金(しょうこきん:契約を確実にするために担保として提供する金)で始め、一年で儲けが十万円。それからの桃介を「相場師になってしまった」と諭吉は嘆いた。

次の挫折は諭吉も支援した丸三商会の行き詰まりだ。丸三商会は米国の材木商社の下請けで、桃介が1898(明治31)年から経営していた。神戸支店長が桃介の弟分 松永安左ェ門だった。のちに「電力の鬼」と言われた松永の人生は桃介と深く関わっている。東京興信所が「桃介は相場師で信用できない」と材木商社に言ったことから、三井銀行が取引を停止し破綻した。

桃介は元上司 井上角五郎の世話で、重役付き支配人待遇で再び北炭に入った。出世は保証されたが宮仕えには見切りをつけた。銭が全てだった。
1901(明治34)年 福沢諭吉が亡くなった。

日露戦争後の株式ブームは多くの成り金とまた没落者の山を築いた。その中で桃介はさっさと手仕舞い信用取引先物取引で、未決済の売買約定を転売、買い戻しにより取引を解消すること)、250万円を手にした。天才というほかはない。

しかし、だんだん虚業が嫌になり、「金持ちになって金持ちを倒してやろう」と実業界に入った。人造肥料、ビール、鉱山、紡績、鉄道と次々に手を出したが、根が相場師であり、企業のビジョンに欠けていた。

ようやく終生の事業は電気だと見定めた。ただし福博電気軌道(後の東邦電力)の社長就任は松永安左ェ門の口説きだった。これにより、ソロバンの桃介が「松永のために損をしようと決心した」という。

慶応の先輩で三井銀行の名古屋支店長 矢田績が、桃介に経営させたら発展するだろうと口説いて、1901(明治34)年 名古屋電灯(現 中部電力)の常務にした。これにより水力発電の意義に目覚めた。自分の足で探査、木曽川に注目したのは、水力発電に必要な水量、落差の大きさ、消費地に近いなどの条件を全部満たしていたからだ。

ところが、名古屋財界人の反感に嫌気が差し半年で辞任した。だが、水力の夢は捨てず、各地の電気会社の社長になっていくことになる。

さらに千葉県から代議士に当選、政治力もつけようとした。野党政友倶楽部に属し「日本郵船には政府から莫大な補助金がつぎこまれている。政府高官が多額の収賄を受けた結果である」と爆弾演説をするなどし、注目を浴びた。

彼を見直した名古屋電灯から復帰の要望があり、返り咲いて常務、そして社長になった。京阪進出の野心をもつが「白昼夢を語る」と株主からも批判が出て頓挫した。別の道を模索した結果、1920(大正9)年52歳の時、山本常太郎らと大同電力(現 関西電力)を創立、社長になった。

他方、名古屋電灯は経営が悪化。桃介は松永に救援を求め東邦電力の設立を機会に手を引いた。大同電力は東京電灯、東邦電力、日本電力、宇治川電気とともに五大電力の一角を占めた。

木曽川の大井発電所は桃介が情熱を注いだ日本初のダム貯水池。工期半ばに大震災で金融が途絶。背水の陣の彼は、排日運動が高まる米国で初の民間外債の発行に成功した。このダムにより、“暴れ川”木曽川の流れがみごとに治まった。

明治半ばに産声をあげた日本の電力産業は、このころには電灯だけでなく、動力源として多くの産業の需要にこたえられるまでに成長していた。近代産業の創出を念頭とし、後に「電力王」とも呼ばれた桃介の雄大な構想が現実のものになった。

桃介は、愛知電気鉄道(現 名古屋鉄道)社長、木曽川電気製鉄社長、大阪送電社長、帝国劇場会長なども歴任した。そして1938(昭和13)年、波乱万丈の人生を終えた。

福沢桃介は、当初は望んだはずの「大人物 福沢諭吉を義父に持つということ」により、その立場がだんだん負担になったのではないか。いくら乗り越えようとしても越えられない悔しさは、終生拭い去れなかった。それにしても、数々の偉業にもかかわらず、その存在は義父 福沢諭吉に隠れてしまう。

企業においても、いわゆる創業者とその二代目が同じ会社にいる場合は、お互いに気を遣うところだ。また、いくら二人が自然体にしているつもりでいても、まわりの社員は特殊な目で見ている。
そして重要なのは経営のバトンタッチをうまくやらないといけないということだ。バトンを落としてしまったり、リレーゾーンをオーバーしそうになったり、二人の足が絡まって転倒したり。バトンを忘れたら、即 失格だ。

★桃介雑記★
●愛人●
桃介と川上貞奴との公然たる愛人関係は有名。福沢諭吉の養子コンプレックスのなせる業ともいう。貞奴もまた彼の気持ちを理解した。

貞奴は東京に生まれ、芸姑となり、顕官(地位の高い官職)らの贔屓(ひいき)を受けたが、1890(明治23)年に川上音二郎と結婚、以後、新派演劇の発展に尽力し、日本で最初の女優といわれた。

桃介は、木曽川の現地の宿舎として、風光明媚な三留野の地に別荘をもうけ、しばしば貞奴を伴って、長期逗留した。貞奴が三留野駅(現 南木曽駅)に降り立つたびに、高名な女優を一目見ようと、黒山の人だかりになった。
電力王桃介と女優貞奴のロマンスは、当時地元の人々の間でも注目の的であった。

この別荘を、現在 記念館として公開している。
レンガ造りの西洋風な建物で、貞奴もしばしばここを訪れ滞在したため、桃介と貞奴の「ロマンの館」としても知られている。当時を偲ぶ二人の写真や貞奴が愛用した茶碗などの遺品が展示されている。

またこの記念館は、大正時代の貴重な西洋風別荘建築としても知られており、館内に一歩足を踏み入れると、桃介と貞奴が過ごした大正ロマネスク時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。
 
●正鵠を射る●(せいこうをいる:急所を正確につく)
松永安左ェ門は桃介を回顧し、「有り難い先輩だから、力を入れてもらうのは感謝の他ないが、時とするとプイと気が変わって泣かされる事が度々あった」
池田成彬は極秘の株売りを桃介に見事見抜かれて驚いた事がある。「一言にいうと目から鼻に抜けるというか。とにかく非常にすばやいのです。その代わり昨日言った事は今日忘れるというたちです。その点はすっきりしたものです」

自分が批判される反面、人を見る目は正鵠を射た。その著『財界人物我観』は希世の人物評といわれる。「人間万事ウソ半分本当半分、もしくは三割ウソ七割本当という程度か」と言う。

例えば「大隈重信は実に雄弁であって、演説も座談も上手であったが、人の言う事を面倒くさがって聴かなかった」「だから偉い人と見られたけれども、本当に胎のなかからこの人のために馬前に討ち死にしようという人は少なかった」。

また、「鈴木商店の大番頭 金子直吉は、婦人の愛情が何処から湧出するかを知らない。従って、俗界に処するには、汚い媒介物が必要だということをご存知ない。あらたかな要路の生き神様へしかるべくおさい銭をあげておくべき事を念頭にかけなかった。それが鈴木商店没落の最大原因である」。 



福沢桃介の本
  福沢桃介の人間学―Anthropology
  福沢桃介の経営学
  経営の鬼才 福沢桃介
  鬼才福沢桃介の生涯
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