友情の証として

村岡花子

きょうは児童文学作家であり翻訳家 村岡花子(むらおか はなこ、本名:はな、旧姓安中)の誕生日だ。
1893(明治26)年生誕〜1968(昭和43)年逝去(75歳)。

山梨県甲府市に父 安中逸平・母 てつの7人兄弟の長子として生まれる。3歳以降は東京で暮らし、1904(明治37)年クリスチャンであった父の関係で、麻布のカナダ系ミッションスクール 東洋英和女学院高等科へ入学した。

英語による授業、寄宿生活など当初は戸惑うこともあったが、13歳頃には図書館にある英語の原書を読めるようになり、同級生の柳原白蓮の紹介により、18歳とき短歌の大御所 佐佐木信綱に師事し、和歌と日本の古典文学を学んだ。また、歌人アイルランド文学の翻訳家 片山廣子に出会い、彼女に勧められて童話を書きはじめた。
卒業後、23歳の時に山梨に戻り、山梨英和女学校へ英語教師として赴任。この頃、歌集「さくら貝」を友人と出版。3年後、再び上京して、銀座の教文館で婦人、子ども向けの本の編集を手がけた。
1918(大正7)年25歳のとき印刷会社を営む村岡敬三と結婚、翌年、長男 道雄が誕生した。1923(昭和12)年 関東大震災で夫の会社が被害を受けた。

1926(大正15)年33歳の時、最愛の道雄を病気で亡くしたことをきっかけに、日本中の子どもたちの健全な成長を祈り、外国の家庭文学の紹介をしていくことを自分の道とした。片山廣子の勧めもあり1927(昭和2)年にマーク・トゥウェインの『王子と乞食』を翻訳出版し好評を得た。同年、同人誌「火の鳥」を創刊。

1932(昭和7)年39歳の時、JOAK(現 NHK)でラジオ放送初めての子ども向け番組「コドモの時間」の中で「子供新聞」のアナウンサーとなり、全国的に広く親しまれた。1942(昭和17)年まで担当した。

そんなとき1939(昭和14)年に友人のカナダ人宣教師から一冊の本、ルーシー・モード・モンゴメリ作「アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ」が贈られた。
感銘を受けた花子は翻訳を始めるが、太平洋戦争中で灯火管制(空爆されないよう灯りに布をかぶせて光が漏れないようにした)時代で、原稿用紙も足りなかった。

アメリカへ帰国した友人への友情の証として」コツコツと訳出を続け、700枚を越える原稿を書き上げた頃には戦争も終わっていた。6年後「赤毛のアン」として出版し、大評判となった。作品は今も幅広い年齢層の読者に愛されている。

以後、終生 日本を代表する家庭文学の翻訳家として活躍した。翻訳作品に『少女パレアナ』『クリスマス・カロル』『母の肖像』など多数。『赤毛のアン』シリーズの翻訳は花子の代表作になった。童話集に『たんぽぽの目』『桃色のたまご』など、随筆集に『生きるということ』『雨の中の微笑』『心の饗宴』など、絵本の翻訳作品に『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』『アンデイとライオン』『ごきげんなライオン』など。

1952(昭和27)年59歳の時、自宅に「道雄文庫ライブラリー」開設。1957(昭和32)年 家庭文庫研究会会長に就任。自宅の一部を「赤毛のアン村岡花子記念文庫」として1995(平成7)年より開放している。

村岡花子は、わが子の死を契機に、文学を通して日本の子どもの健全な成長を願うようになり、大きな成果を残している。大変なショックだったろうが、それを前向きなエネルギーに変えているところはすばらしい。

企業においても、何かの契機を捉えて心機一転、心がけを変えることは必要である。それは昇進・昇格時は当然ながら、異動や新プロジェクトを任された時はチャンスだ。また、叱られた時やミスをした時、降格などの場合こそ、心を切り換えて前向きに奮闘すべきだ。


村岡花子に関するDVD
  赤毛のアン 完結版 [DVD]
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村岡花子の本
  赤毛のアン (新潮文庫)
  少女パレアナ (角川文庫クラシックス)
  クリスマス・カロル (新潮文庫)
  エミリーの求めるもの (新潮文庫)
  わが少女の日 (叢書 女性論)
エミリーの求めるもの (新潮文庫)