薬を使用しないように

長井長義

きょうは薬学者、日本の薬学の創始者 長井長義(ながい ながよし、幼名:直安)の誕生日だ。
1845(弘化2)年生誕〜1929(昭和4)年逝去(83歳)。

阿波国徳島城下常三島(現 徳島県徳島市中常三島町)に旧徳島藩医 長井琳章の長男として生まれた。幼時から漢方医薬術を修めた。1866(慶応2)年21歳の時、藩命で長崎へ留学。精得館に学び、蘭医ボードイン(Antonius F. Bauduin)に化学を、マンスフェルト(C.G. Van Mansvelt)に臨床医学を学んだ。寄宿先の写真術の祖 上野彦馬の感化で化学を志す動機が芽生えた。

1969(明治2)年 上京して大学東校(現 東京大学医学部)入学、英医ウィリス(William Willis 1837〜94)に学んだ。間もなく学制改革でドイツ医学導入に変わり、第1回医学留学生に選ばれた。
1870(明治3)年25歳の時、ベルリン大学に留学、ホフマン教授の実験によって理論づける化学講義に感動し、医学をやめて有機化学に熱中、ホフマン教授の最良の協力者と讃えられた。卒業後同教授の助手に選ばれ13年間ドイツに留まった。その間、丁子油(ちょうじあぶら)成分オイゲノールの構造決定研究によって1981(明治14)年学位を得た。

1884(明治17)年39歳の時、日本政府の招きで14年ぶりに帰国。東京大学医・理学部教授、半官半民の大日本製薬会社技師長、内務省衛生局東京試験所長を兼任、近代化を急ぐための化学教育と応用部門の開発に主力を注ぎ。試験所では漢薬(漢方薬に用いる生薬)成分研究を始めた。

1885(明治18)年40歳の時、漢薬麻黄(ぜんそく薬)の有効成分「エフェドリン」を発見、これがわが国の天然物有機化学と合成化学研究の出発点となった。

エフェドリンの生理・薬理学的、合成研究は後人の研究になったが、交感神経興奮・気管支拡張・昇圧・局所血管収縮作用が確認され、喘息(ぜんそく)の治療薬としてかけがえのない有用物質であることが明らかとなった。
今日一般に用いられる総合感冒薬にも咳止めとして必ずといってよいほど配合され、健康保持、病気治療に多大の恩恵を与えている。

その他、漢薬牡丹皮(ぼたんぴ)成分「ペオノール」、苦参(くじん)成分「マトリン」、ロート根成分「ヒヨスチアミン・アトロピン」、蒼朮(そうじゅつ)成分「アトラクチロン」、桜葉成分「クマリン」など各種漢薬成分の研究、ピローン属、徳島産の染色用植物藍の研究など多数の業績を残した。

1886(明治19)年41歳でドイツ生まれのテレーゼ夫人と結婚した。長井はドイツ留学中の1883(明治16)年38歳の時、あるきっかけで17歳年下のドイツ娘・テレーゼを見初め、結婚を申し入れたが、彼女の両親の承諾が得られぬまま、翌年5月にやむなく帰国していた。

1886年東京化学会会長に就任した。1888(明治21)年 日本薬学会会頭(終身)、1893(明治26)年から28年間 東京帝国大学教授として薬化学講座を担任した。1907(明治40)年 東大名誉教授に就任した。
日本最初の理学博士(1885年)、同薬学博士(1899年)でもある。日本における薬品の標準規程を定め、管理する典範(てんぱん)『日本薬局方』の編纂にも寄与した。

また第一次世界大戦にあって、医薬品の国産化の要請にこたえ、官民合同(今で言う 産学官連携)の内国製薬の顧問として合成研究指導に尽力した。一方、東京女子大学講師として女子化学教育の先がけをなした。独逸学協会中学校長、日独協会副会頭をもつとめ、テレーゼ夫人とともに日本社会の国際化と日独親善に功績があった。

長井長義は、当初 医学を学ぶがドイツ留学により、薬学の重要性を実感し、帰国後数々の漢薬を発見している。そして粗悪な輸入品が氾濫するなかで、品質の向上と国産化をめざしている。

企業においては、健康に留意し疲れやストレスを溜めたままで就業しないように心がけなくてはいけない。病気になったら薬もやむをえないが、できれば薬を使用しないように日頃の健康管理や予防の心がけが大切だ。


長井長義に関する本
  歴史の中の化合物―くすりと医療の歩みをたどる (科学のとびら)
  薬の歴史・開発・使用 (放送大学教材)
  薬と日本人 (歴史文化ライブラリー)
  概説薬の歴史
  やさしいくすりの歴史
やさしいくすりの歴史概説薬の歴史薬と日本人 (歴史文化ライブラリー)