要素技術が詰まっている

吉田忠雄

きょうは世界のファスナーYKKの創業者 吉田忠雄(よしだ ただお)の誕生日だ。
1908(明治41)年生誕〜1993(平成5)年逝去(84歳)。

富山県下新川郡中島村(現 魚津市)の貧しい家に生まれた。1923(大正12)年、魚津町立魚津尋常高等小学校高等科を首席で卒業、兄のゴム長靴屋を手伝っていた。1928(昭和3)年20歳の時、「二度と戻らない」覚悟で、貿易商になる夢を胸に上京。日本橋の古谷順平という人が経営していた、中国の陶器を輸入する店「古谷商店」で働くことになった。

どこに何の品があるか分からない…。吉田が働き始めた頃の古谷商店の倉庫は、ほとんど整理整頓されておらず、商品の数も分からないという状態だった。
そこで倉庫をすっきりさせようと考え、倉庫の物品の整理を始めた。整理をしながら、数多くの商品の名前を覚えた。
吉田の熱心な仕事ぶりは、すぐに認められ、どんどん信用されるようになった。その後、古谷商店は、ファスナーも販売することになった。吉田はファスナーの商売に真剣に取り組んだ。しかし、1933(昭和8)年の世界的な恐慌で会社は倒産。
吉田は在庫品のファスナーを引き取り、1934(昭和9)年26歳の時に「サンエス商会」(吉田工業の前身)を社員3人で立ち上げた。

その後、1938(昭和13)年30歳のとき江戸川区小松川に工場を建て、社名を「吉田工業所」とし、さあこれからという時に工場が空襲で焼失。魚津に疎開し再起を図る中、終戦を迎えた。
戦後、昔の仲間が次々に復員し、魚津工場が軌道に乗り始めた1947(昭和22)年39歳の夏、東京営業所に一人の米国人バイヤーが訪ねて来た。

吉田は、自社の自信作を見せ1本9セントでどうかと持ちかけるが、一笑に付されてしまう。何とバイヤーは自分の持っているものを7セント40で買わないか、と言うのだ。商品を見て、吉田は青くなった。機能、デザインともに比べものにならないほど優れていたからだ。

吉田はこの時のことを後に「…アナがあったら入りたいとはこのこと。まったく目から火が出るような思いがした」と振り返っている。
当時、日本のファスナーは手作り。まず、金属線から務歯(むし)と呼ばれる細かい歯を打ち抜く。テープ地を金属製の櫛で挟み、務歯を櫛の目に一つ一つ収め、それを手動のプレス機でかしめるのだ。

一方、バイヤーが持ってきた米国製ファスナーは、務歯の打ち抜きから植え付けまですべて機械で製造されたものだった。安価で高性能な米国製ファスナーが入ってきたら、日本のファスナー業界は壊滅的な打撃を被るに違いない――吉田は危機感をつのらせた。

吉田は手作業で物を作ることの限界を認識した。生き残るには、米国製の機械を輸入するしかない。そう考えた吉田は業界各社に共同購入を呼びかけるが、手を上げる者は誰一人いなかった。ならば独力でと決断するものの、当時外貨割当には厳しい制限が設けられており、簡単には許可が下りない。

資本金500万円の地方の中小企業が1台3〜4万ドル(1200万円)もする外国の機械を買う――さぞかし官僚も驚いただろう。吉田は霞が関に2年半通いつめ、1949(昭和24)年41歳の暮、ようやく輸入許可を得た。

後日、資金繰りのため日本興業銀行を訪ねた時も、自分の仕事への信念を思い切りぶつけ、「彼の仕事に対する情熱と自信はすさまじかった」と交渉相手に言わしめた。具体的な目標とその達成に必要なものを、論理的に突き詰めて考える。彼は常にこのやり方で、YKKの繁栄を築いていった。

翌年届いた機械は、期待に違わぬものだった。米国製のチェーンマシン(自動植え付け機)は、160人分の務歯打ち抜き・植え付け作業を、わずか6人でやってのけた。吉田はこのチェーンマシンを100台、国内の精密機械メーカーに発注した。

1951(昭和26)年43歳の時、第一陣の国産マシン30台が導入されると、同年10月には月産100万本を突破、早くもファスナー生産日本一の座を手にした。
量産体制を整えた吉田の次なる一手は、「一貫生産体制の確立」だった。

1954(昭和29)年46歳の時に着工した黒部工場では、圧延伸線、熔解、染色、織機、鈑金、型工作、アルミ合金製造といった工場の建設が進められ、3年後の1957(昭和32)年49歳の時に完成。翌年には、黒部市生地(いくじ)に紡績工場も完成、テープの材料となる糸に至るまで一貫生産が可能になった。

ファスナーメーカーが紡績やアルミ合金の製造まで行うことに、社内外から批判や反対の声もあった。これに対し、吉田は言った。
YKKは確かにファスナーメーカーであり、決して紡績会社や伸銅会社ではない。だが、消費者に申し分のない品質のファスナーを安定して提供するには、ファスナーに最も適した材料を原料からつくるべきだ」

こうした吉田の“川上主義”は原材料だけでなく機械の製作にも適用され、1958(昭和33)年50歳の時からはチェーンマシンも全面的に自社生産となった。

この賭けは成功し、YKKのファスナーは売れに売れた。1961(昭和36)年53歳の時には「アルミ建材」にも進出。その製造ノウハウによりファスナー自体の品質も上がった。

黒部工場が操業を始めた頃から、新製品が次々と発売された。
例えば、1958(昭和33)年 世界に先駆けて開発したエレメント(務歯)が外から見えない「コンシールファスナー」や、エレメントがコイル状の樹脂でできている「コイルファスナー」(1964昭和39年)、生産工程を大幅に合理化した「YZip」(1966昭和41年)などである。

そして1975(昭和50)年代には、ファスナーの精密性、耐蝕性、強度を高めることによって、用途の開拓が進んだ。ビスロンファスナーなどの樹脂ファスナー群が、漁網や水中養殖用のカゴ、農業用のビニールハウスや米俵に代わる麻袋、防虫・防鳥ネットなど産業資材に用いられるようになった。

機能性を高めたファスナーの代表格といえば「水密・気密ファスナー」。YKKの水密・気密ファスナーは宇宙服をはじめ、化学防護服、ダイビングスーツなどに使われているほか、巨大建造物の建設にも一役買っている。

青函トンネルの工事では、しみ出してくる海水を1個所にまとめて流すパイプ状のといに使われた。時々、ファスナーを開いて中を掃除することで、といが詰まるのを防げる。また、明石海峡大橋でも、このファスナーが雨どいの一部として採用された。

このほか、電磁波を遮断する「電磁波シールドファスナー」、レーシングスーツなどに用いられる「難燃・耐熱仕様ファスナー」、自然環境で分解し土に還る「完全生分解性面ファスナー」など、特殊な機能を持つファスナーも開発されている。

YKKの海外進出は1959(昭和34)年のインド工場建設に始まるが、当時、海外に進出する企業などほとんどなかった。いわゆる日本企業の“海外進出ラッシュ”は、1985(昭和60)年の「プラザ合意」後だが、この時点でYKKは既に世界40カ国で生産活動を行っていた。

YKKが極めて早い時期から海外に出た理由としては、各国の関税障壁を乗り越えなければならなかったことと、ファスナーが消費即応型の商品であることが挙げられる。縫製品が多品種少量生産でライフサイクルが短いため、ファスナーも現地のニーズに即応した動きが求められるのだ。

この「需要がある場所での生産」に加え、YKKの生産戦略として特筆すべきことは、ファスナーの生産機械をすべて内製化しており、その機械はどこにも販売されていないということ。アメリカでも中国でも、世界60カ国以上にあるYKKの工場には同じ機械が配備されている。

24時間無人化され、ボタン一つで制御できる高性能マシンを配備した工場は、他社から見れば、ブラックボックスのようなもの。逆にいえば、YKKは工場そのものをブラックボックス化し、独自の技術や製品のクオリティを守ったからこそ、世界のYKKになったともいえる。

リーバイ・ストラウスをはじめ、ナイキやアディダスといった一流ブランドに選ばれたYKKファスナー。一見、何のヘンテツもないように思えるファスナーには、実に1200件以上の要素技術が詰まっているという。ファスナーは特許の固まりなのだ。「たかがファスナー、されどファスナー」

吉田は鉄鋼王 カーネギーを信奉しており「善の循環」という言葉を常に使っていた。「他人の利益をはかって、初めて自らも繁栄する」という思想だ。それを最もよく表しているのがオイルショックの時のエピソード。
彼は取引先の人たちを集めてこう言った。「我社が百億円の損失をかぶる。だからみなさんは出し惜しみや値上げはしないでほしい」

消費者に製品を供給するために、メーカーが泥をかぶらずにどこが責任を取るのか、というのが彼の哲学であった。
1993(平成5)年7月3日、肺炎のため死去。

吉田忠雄は、たまたま住み込んだ家の商売がファスナーであり、以後ファスナーと関わるが、彼のモノづくりへの執念が無かったら、人類は未だにボタンが主の生活をしていたかもしれない。彼の技術力もさることながら、誰に習ったわけでもない経営感覚がすばらしい。

企業においても、モノづくりの考え方とか経営感覚の優れた人が望まれるが、いくら教育しようとしても、やり方もわからないし、やったとしても優れた人がすぐに出来上がることは期待できない。これは、本能的に持ち合わせているか、生まれ育った環境によりじっくりと育つ究極の要因が影響しているのではないだろうか。それは有る無しではなく、大きさとか強さの問題なのだろうが。

★ファスナーあれこれ★
ファスナーが初めて使われたのは? スカート、ズボン、コルセット? いいえ、正解は靴(ブーツ)。

1891(明治24)年、アメリカ人のホイットコム・ジャドソンが、靴の紐を結ぶのが面倒で発明したのがファスナーの起源といわれている。
シカゴで開催された「コロンビア博覧会」に出品したファスナーに弁護士ルイス・ウォーカーが興味を持ち、後にユニバーサル・ファスナー社を設立し、生産を開始した。

日本では、昭和の初期、広島県尾道の人がファスナーを作り始め、「チャック印」の財布と銘打って売り出した。これが当時としては壊れにくかったために評判となり、以降、チャックがファスナーの代名詞となった。チャックは元々「巾着(きんちゃく)」をもじった言葉なので、海外では通じない。

では、海外で何と呼ばれているのかといえば、英国では「スライドファスナー」、米国では「ジッパー」、イタリアでは「キウズーレ・ランポ」、中国では「ラーリェン」。ちなみに「ジッパー」は、ビュッと飛ぶ弾丸などの音を表わす擬声語「Zip」に由来する。

ファスナー業界にあって、YKKは国内市場の実に95%、世界でも45%のシェアを誇る。世界2位、3位のシェアはわずか7〜8%ずつなので、今やほとんどのファスナーがYKKといっても過言ではない。



吉田忠雄のことば
  「他人の繁栄をはからなければ自らも栄えない。
   私はそれを『善の循環』と呼んでいる。
   個人や企業の繁栄が、そのまま社会の繁栄へとつながっていく」
  「商品を安く買って高く売れば儲かるが、それでは他人の利益にはならない。
   高く買って安く売れば、自らが滅びる。
   発明と工夫、貯蓄と投資をくり返せば、他人も自分も繁栄することができる」


吉田忠雄のDVD
  ザ・メッセージ YKK 吉田忠雄(DVD) ()ザ・メッセージ YKK 吉田忠雄(DVD) (<DVD>)


吉田忠雄の本
  創る売るその発想
  仕事儲け人儲け―人間吉田忠雄語録
  獅子が吼える―YKK創始者吉田忠雄の生涯