晩年まで筆力が衰え

藤島武二

きょうは日本の近代洋画を発展させた洋画家 藤島武二(ふじしま たけじ、幼名:猶熊)の誕生日だ。
1867(慶応3)年生誕〜1943(昭和18)年逝去(75歳)。

薩摩藩(現 鹿児島市)に藩士の三男として生まれる。長らく続いた武家社会が終焉し、元号が「明治」へと変わる前年であった。幼年時代から北斎漫画や油絵を模写し画才を発揮した。僅か10歳で家督を継ぎ、苦しい生活の中で鹿児島中学に進むが、その間 四条派の絵師 平山東岳に日本画を学んだ。1884(明治17)年17歳のとき上京し翌年 川端玉章の門に入った。

限られた画題を制限の多い技法で描かねばならないこの世界に嫌気がさして、1889(明治22)年22歳の時、曽山幸彦の塾に移り、洋画家を志した。また、中丸精十郎、松岡寿の指導も受けた。
1893(明治26)年26歳のとき三重県の中学校で教職に就いた。
1896(明治29)年29歳のとき東京に戻り、創立された「白馬会」の会員となった彼は、東京美術学校(現 東京藝術大学)の西洋画科新設に際し、同じ鹿児島出身の洋画家 黒田清輝の推薦で同科の助教授に任命された。黒田清輝などの影響を受けて外光派風の技法を用いた。

1905(明治38)年38歳のとき文部省から絵画研究のため4年間のフランス、イタリア留学を命じられ、年末に渡欧した。パリに住みついた彼は、私立アカデミー・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学びんだ。

1900年代に入ったパリでは、印象派に次ぐ新しい画風が展開されていた。そうした状況を眼前にした藤島は、わが国に印象派風の表現をもたらした黒田清輝の師 ラファエル・コランに敢えて就かず、逆に国立美術学校のフェルナン・コルモンのもとでアカデミックな勉強をした。

その後、ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスを巡り、各美術館を訪れ、1908(明治41)年41歳の時、イタリアに移り、ローマでフランス・アカデミー院長のエミール・オーギュスト・カロリス=デゥランの指導を受けた。スイス旅行中、ローマに残しておいた作品の大半が盗難にあうという事件もあった。

1910(明治43)年43歳の時に帰国。この留学は、すでに東京美術学校助教授の地位にあり、明治浪漫主義絵画の頂点を示す傑作を生み出していた藤島にとっては、年齢的には遅いものではあったが、あらためて絵画の基礎を学び取ったことは画家自身のみならず、日本の近代洋画の発展に計り知れない意義を持った。

以後、清新で気品の高い滞欧作品を発表し、洋画界の中心人物となった。また、東京美術学校教授として指導につとめ、小磯良平猪熊弦一郎などを出した。
彼は、「文展」のリーダー的立場でありながら実質的は「二科展」の創立にも大きく関与し、苦慮するが黒田清輝の懇願により文展に残った。

そして日本近代油彩画のもっとも正統的で、暢達(ちょうたつ:のびのびしていること)な筆触で明るい色調の作風を展開させた。
1924(大正13)年57歳のとき帝国美術院会員、1934(昭和9)年67歳のとき帝室技芸員になり、1937(昭和12)年には岡田三郎助、横山大観竹内栖鳳とともに第1回文化勲章を受章した。

代表作は、初期の「芳恵」「天平の面影」「蝶」や、晩期の「耕到天」「東海旭光」が名高く、晩年まで筆力が衰えなかった。「洋画壇の元老」と呼ばれる。1943(昭和18)年3月19日、脳溢血のため本郷の自宅にて亡くなった。

藤島武二は、洋画を志したいと思いつつも、十代後半は日本画を学んだ。この日本画の勉強は、のちの作風に大きな影響をあたえた。
そして、西洋で生まれた油彩画を、東洋の日本で描くことの意味を彼は考え、簡潔さと豊麗さ、豪快さと繊細さをあわせもつ芸術世界を創り出した。

企業においても、いろんな分野を経験するとそれが役立つことが多い。できれば若いうちに手を挙げることだ。不得手なこともあるだろうがそれに打ち込むことだ。それは必ず成果となって出てくる。


藤島武二の作品

     
  黒扇         裸婦           耕到天


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