正しさが実証される   

田口卯吉

きょうは明治時代の経済学者で歴史家の 田口卯吉(たぐち うきち、幼名:鉉、号:鼎軒 ていけん)の誕生日だ。
1855(安政2)年生誕〜1905(明治38)年逝去(49歳)。

徒士(かち:主君の警備にあたる下級武士)の子として江戸目白台に生まれた。幼くして父を失い、12歳のとき、徒士見習となり父祖の跡を継いだ。幕府が瓦解したのち、横浜で商売の道につき、かたわら英語を学んだ。

1869(明治2)年14歳の時、幕臣 乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ)の勧めで沼津兵学校へ入り、兵学校で学ぶかたわら、乙骨に英学を、中根淑に漢学を学んだ。途中医師を志望して静岡病院でも学んだ。大学予備門を経て、明治維新の後、尺 振八 (せき しんぱち) の共立学舎で医学を学んだ。
1872(明治5)年17歳の時、大蔵省翻訳局上等生徒となり、英語、経済学、文化史を研究した。そののち1874(明治7)年には紙幣寮に勤務した。自由主義経済論の立場から『自由貿易日本経済論』を著わし自由放任と自由貿易政策を主張して、政府の経済政策を批判し辞職した。

歴史に関心をもち、1877(明治10)年から1882(明治15)年には5巻の「日本開化小史」を著わした。紀伝体や紀事本末体などの伝統的な史体を完全に離れ、バックルの「英国文明史」に影響された斬新な史観によって、神道の始まりから幕末の勤王の勃興までを概観したものである。
これは近代における日本文明史のさきがけと称せられ、新しい歴史観を示し、現在でも“百年の名著”として推されている。

1879(明治12)年22歳のとき、イギリスの「エコノミスト」に範をとり「東京経済雑誌」を創刊して、自由貿易主義を主張、論旨明断な評論で社会に大きな影響を与え、経済評論の第一人者の地位を確立した。亡くなるまでこれを主宰した。

田口は、日本の経済、政治、社会の発展に力を尽くした。1890(明治23)年に組織した「南島商会」は、東京府の士族授産金を運用する目的のもので、天祐丸で南洋(ミクロネシア)貿易に従事させた。また、鉄道敷設、鉱山試掘など実業界で活躍する一方、政界でも、1894(明治27)年39歳で衆議院議員になった。

1899(明治32)年44歳の時、法学博士を授与された。
また、史学の雑誌「史海」の発行、「群書類従」や「国史大系」「大日本人名辞書」「日本社会事彙」の編集、出版などで、史学界に貢献した。

田口卯吉は、経済学者やエコノミストのほかに、事業家としての顔もある。考え、発言するだけでなく、その理論を実践して見せている。考えたことをことばにしたり文章にすることは、人に伝えると言う面で重要なことだ。さらにそれを実行するというのは、正しさが実証されるわけで、説得力がある。

企業においても、自分の考えをことばにしたり文章にすることは大きな意味を持ち、それを実証して見せることで相手を納得させることができる。文書を渡すだけ、言うだけで相手に自分の考えが伝わったと考えるのは大きな間違いで、やって見せたうえで、理解し納得したかどうかを確認する必要がある。さらにそれを繰り返して、確かなものにしていかなくてはいけない。


田口卯吉の本
  日本開化小史 (講談社学術文庫 (324))
  鼎軒田口卯吉全集
  田口卯吉と経済学協会―啓蒙時代の経済学
  田口卯吉 (人物叢書)
  鼎軒田口先生伝―伝記・田口卯吉 (伝記叢書 (114))
田口卯吉 (人物叢書)