夢と業務への情熱が   

服部宇之吉

きょうは中国哲学の権威 服部宇之吉(はっとり うのきち)の誕生日だ。
1867(慶応3)年生誕〜1939(昭和14)年逝去(72歳)。

会津二本松(現 福島県二本松市藩士 服部藤八の三男として生まれた。藩士といっても僅か二人扶持(ににんぶち)の下級武士の家系だった。生まれた一年後に母が病気で亡くなり、二年後に父が戊辰戦争で戦死するという不幸が続いた。そのため、宇之吉は父の弟夫婦に引き取られて育てられることになった。

1873(明治6)年6歳の時、養父が麻布六本木の旧二本松藩主 丹羽邸に勤めることになり、一家で上京した。貧しいながらも実直勤勉な養父母の理解もあり、宇之吉は漢学塾で学び始め、1876(明治9)年7歳の時、麻布小学校開設と同時に入学し、勉学の道を歩み始めた。四年で卒業し、漢字、英語、数学の三つの塾に通った。1881(明治14)年には共立学校(現 東京開成中学校)に入り、2年後には大学予備門に入学した。
1887(明治20)年20歳で、東京帝国大学哲学科に入学。この年、旧藩主 丹羽長裕に随行し、二本松に帰省している。そのとき“養父母や他の人から聞いておりました二本松というものを、初めて自分の目で見、自分の足で踏んだように感じたのであります”と、のちに語っている。

帝大で、宇之吉の漢学者、教育者そして中国哲学の権威者としての基礎が構築された。そして帝大を卒業し、文部省に勤めたものの、すぐに退職し、第三高等中学校(旧制三高の前身)教授として赴任、のち東京高等師範学校教授、さらに1897(明治30)年30歳の時には文部大臣秘書官として文部省に再勤務した。

1899(明治32)年32歳で、東京帝大助教授となり、同時に文部大臣から漢学研究のため清国(しんこく:中国)とドイツへの留学を命じられた。1902(明治35)年、文学博士号の学位を受けるとともに、東京帝大教授に迎えられた。その直後、清国政府の懇請により北京大学堂師範館主任教授として清国に渡った。
清国人教育の根幹は清国人自身にあるという理念のもと、師範制度を確立し、また清朝廷の家庭教師を兼ねるなど、清国教育界の発展に貢献した。

1915(大正4)年48歳の時、アメリカのハーバード大学中国哲学の講義を受け持ち、帰国後は帝国学士院会員、東京帝大文学部長を務め、後に総長となった。
1921(大正10)年54歳で、東宮職御用掛を拝命し、御講書始には天皇への漢書御進講の栄に再三浴している。また京城帝国大学創設に携わり、1926(大正15)年59歳で初代の京城帝国大学総長となった。
さらに、昭和天皇 裕仁(ひろひと)親王の進講御用掛を拝命し、「二本松藩戒石銘」の御進講を行ったといわれている。

服部博士の学問は西洋哲学を踏まえて、いわゆる孔孟の道、中国の礼の思想に論理的体系付けをしている。なかでも中国古代の実践儀礼、冠婚葬祭全般にわたる士の儀礼の典拠として、ただ一つ残されている「儀礼(ぎらい)」の研究に独自の見解を発表し、国内外の学界より高い評価を得た。その研究業績は、『清国通考』『詳解漢和大辞典』などの著書・論文を合わせて二百余の多くを数えている。

服部宇之吉は、幼少のころ両親を亡くし叔父夫妻に育てられているが、理解ある人であったし上京により教育環境にも恵まれ、その才能を活かすことができた。
企業においても、上司と職場環境で将来の姿は大きく変わるだろうが、自分なりの夢と業務への情熱があれば、どのような状況であっても適切に対応できるはずだ。


服部宇之吉に関する本
  修訂増補 詳解漢和大字典
  北京篭城―付北京篭城回顧録 (東洋文庫 (53))
  北京篭城 (ワイド版東洋文庫 (53))
  会津士魂 9 二本松少年隊 (集英社文庫)
  二本松少年隊―物語と史蹟をたずねて (成美文庫)
会津士魂 9 二本松少年隊 (集英社文庫)北京篭城―付北京篭城回顧録 (東洋文庫 (53))