犠牲にしなくても   

由井正雪

きょうは江戸時代の軍学者で慶安事件の首謀者 由井正雪(ゆい しょうせつ)の誕生日だ。
1605(慶長10)年生誕〜1651(慶安4)年逝去(46歳)。

駿府(すんぷ:現 静岡市)出身と伝えられているが詳細は不明。1622(元和8)年17歳の時、大きな夢を抱いて江戸に出て鶴屋に奉公した。楠木正成(くすのき まさしげ)の子孫という楠木正辰(まさたつ:楠木不伝)の弟子となり、のちに養子となった。神田連雀町に楠木正辰の「南木流」を継承した軍学塾「張孔堂」を開き、多くの浪人を門下に集めた。楠木正成の子孫と自称したという説もある。

正雪は、幕府の政策で地位を取り上げられ浪人になる旗本が多くなる状況を見て、何とかしないといけないと考え始めた。
そして、江戸幕府第三代将軍 徳川家光の死の直後に、幕閣の批判と旗本の救済を掲げ、丸橋忠弥・金井半兵衛らとともに幕府転覆のクーデターを画策した。久能山の家康の霊廟にある遺金を奪い取る計画だった。
しかし、密通者があり計画が事前に漏れていたため、仲間の丸橋忠弥は実行直後に捕まってしまった。正雪は、1651(慶安4)年7月22日、計画実行のため江戸を出発、7月25日駿府に到着、駿府梅屋町の町年寄、梅屋太郎右衛門方に宿泊した。しかし翌26日の早朝、駿府町奉行の捕手に囲まれ無念の自刃をした。7月30日に仲間の熊谷三郎兵衛が自害、8月10日には丸橋忠弥が磔(はりつけ)となった。

この慶安事件は、慶安の変、慶安の乱、由井正雪の乱とも言われる。正雪に呼応して事件に関わった浪人は2千余名にものぼったようだ。

この事件は、次の江戸四代将軍 徳川家綱が政治を武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つのとも言われている。また、この後幕府は各藩へ浪人を減らすように勧め、幕府も大名の改易(官職を辞めさせること)を減らし、浪人が増えないよう政策をとった。

由井正雪は、黙阿弥作『花菖蒲慶安実記』など歌舞伎や浄瑠璃の登場人物として広く知られるようになった。

慶安事件の黒幕は徳川頼宣(よりのぶ、家康の第10子、紀伊徳川家の祖)という説がある。その証拠として多くの内通者があり、彼らの多くが幕府に召し抱えられ出世している。また、正雪は1630(寛永7)年、紀州藩に来遊している。さらに、家康の遺金2百万両は、事件前に半分を御三家(尾張紀伊、水戸)へ分け、残りは江戸城へ移されていたらしい。

由井正雪は、江戸と京都、大阪で同時テロを行い、幕府の転覆を図ろうとするが、事前に計画が漏れ失敗してしまう。情報網が整っていない当時において、何年もかけて計画、2千人以上の浪人を動員して事を行うには、いくら決死の覚悟であってもできるものではない。しかし、結果的には幕府も政策を変更することになるわけだが、多くの人を犠牲にしなくてもいい他の方法があったかもしれない。

企業において、経営サイドの決断を一般社員が変更することは難しいが、現在は労働組合があり公共の機関もあるので、問題が大きくならないうちに話し合いにより解決することが望ましい。また裸の王様を居座らせるのは社員の責任でもある。


由井正雪の辞世の句
  「秋はただ なれし世にさえもの憂きに 長き門出の 心とどむな
    長き門出の 心とどむな」


由井正雪の本
  由井正雪―柴錬痛快文庫 (講談社文庫)
  天下を狙った男 由井正雪 (SPコミックス)
由井正雪―柴錬痛快文庫 (講談社文庫)