独創のものはなく   

伊藤東涯

きょうは江戸時代中期の儒学者 伊藤東涯(いとう とうがい、
本名:源蔵長胤、号:東涯)の誕生日だ。1670(寛文10)年生誕〜1736(元文元)年逝去(66歳)。

京都上京東堀川4町目(現 京都市上京区東堀川出水下ル4丁目)に伊藤仁斎と嘉那(尾形氏)の長男として生まれた。

父 仁斎の唱えた「古義学」を継承し、古義学派を成して、堀川学派という一派を大成した。1705(宝永2)年 仁斎の死後、その原稿を門人らと訂正・増補して刊行することに努め、家塾「古義堂」第2代当主として子弟の教育に当たった。

孟子古義」などはほとんど東涯の著述に近いといわれる。「古義学」の創唱者 伊藤仁斎には、東涯、梅宇、介亭、竹里、蘭嵎の五男があり、それぞれ父の学を継いで広めた。
仁斎の学説には朱子学的思考や仏教的表現が残存していたが、東涯はこれらを削去して全体的に整序するとともに、“三書主義”“意味血脈論”など仁斎の主要学説を否定し、道徳実践の基準として客観的な社会秩序を重視した。新井白石荻生徂徠らと親交が篤く、また奥田士享・篠崎東海ら多くの子弟を育成した。

東涯は、語法論や考証学では独自の領域を開いた。主著は『周易経翼通解』『論語古義講録』『論語古義標註』『孟子古義標註』『用字格』『用字考』『名物六帖』『制度通』『経史博論』『訓幼字義』『紹述先生文集』など。
古義堂第3代は,三男の東所が継いだ。

東涯は「紹述(しょうじゅつ)先生」と尊称され、博学多才、寡黙、謹厳、人の短所を口にしないという人柄であった。諸侯はその名声を慕って招聘したが、いずれにも応ぜず、門人教育と著書の執筆に専念した。特に著書の多いことで名高い。そして民間の教育者・町学者として博覧・綿密な学究に終始した。妻は倉(加藤氏)で3男1女を生んだ。

東涯の学問は独創のものはなく、ほとんど仁斎の学問を受け継いだものである、と言われているが、偉大な父 仁斎の存在があまりにも大きく、それをさらに大きく変えることは無理があるとわかっていたはずだ。東涯の優れたところとしては、仁斎の表現を修正した程度で、定着させることに重きを置いた点にある。

企業においても、創業者やカリスマ的な経営者の後を引き継ぐ方法としては、さらに変更するよりも、先代の業績を定着させる方が得策である。

伊藤仁斎古義学☆
伊藤東涯の父 仁斎(1627年〜1705年)は少年時代から学問に志し、厳しい思想的苦闘の末に独自の文献学的方法を駆使して、独創性に富んだ「古義学」と呼ばれる思想を構築。後の近世思想に重大な影響を及ぼした思想家である。
仁斎は「論語」や「孟子」こそが儒教の本質であると考え、朱子学を全面的に批判、自ら古典の解釈を行い、古代儒教のもつ素朴な倫理観に回帰した。
「古義学」は全ての人々の道徳的覚醒を説いたものである。その所説の中には具体的な政策的提言は見られず、ただ、経世済民(けいせいさいみん:世の中を治め、人民の苦しみを救うこと)の原則のみが議論されている。農工商の三民の道徳性が明確に認知され、その経済行為もまた肯定されている。



伊藤東涯のことば
  「人の長短は見易く、おのれの是非は知り難し」
  「口に才ある者は、おおく事に拙なり」
  「君子は己を省みる。人を毀る(そしる:非難する)暇あらんや」


伊藤東涯の本
  制度通 (上巻) (岩波文庫)(下巻)
  日本思想大系〈33〉伊藤仁斎・伊藤東涯
  当世詩林―天理図書館蔵 (京都大学国語国文資料叢書 (26))