前衛性と伝統性を融合
きょうは日本叙情詩人であり翻訳家 三好達治(みよし たつじ)の誕生日だ。
1900(明治33)年生誕〜1964(昭和39)年逝去(63歳)。
大阪市東区南久宝寺(現 中央区南久宝寺町)に生まれた。父 政吉は印刷所を経営していた。生後まもなく兵庫県に養子に出されるが、小学校三年の時実家に戻った。10歳頃から小説を読み始めた。
靭(うつぼ)尋常小学校(昭和17年廃校)を卒業し、市岡中学校(現 市岡高等学校)に入学。家業が傾き、家計を助けるため中学を二年で退学し、父親が希望した学費のいらない陸軍幼年学校、陸軍士官学校へとすすむが中退し、第三高等学校(現 京都大学)へ入学した。
ここで丸山薫、梶井基次郎、桑原武夫、吉川幸次郎と知りあった。ニーチェ、ツルゲーネフなどを耽読し、萩原朔太郎、室生犀星、堀口大学らの詩に感銘し、自らも詩を書き始めた。
東京帝国大学文学部仏文科にすすみ、淀野隆三、堀辰雄、小林秀雄を知った。1926(大正15)年26歳の時、梶井基次郎、中谷孝雄らの同人誌「青空」や、百田宗治主宰の雑誌「椎の木」などに作品を発表して注目された。
1928(昭和3)年28歳で、帝大卒業後、萩原朔太郎の知遇をうけ「詩と詩論」や「詩・現実」に加わった。1929(昭和4)年29歳の時、ボードレールの散文詩集「巴里の憂鬱」を翻訳、1930(昭和5)年、最初の詩集「測量船」を刊行、ともに高い評価を受け文学的地歩を確定した。
生計のためにファーブル昆虫記、メリメなどを次々と翻訳した。その量は10年間で原稿用紙二万枚にもおよんだ。ボードレールとともにジャムの「夜の詩」は名訳として名高く、現在も売れている。前衛性と伝統性を融合させた詩風で絶賛されるが、健康を害し、ジャム風の四行詩に傾いた。
その後、1932(昭和7)年32歳の時、「南窗集(なんそうしゅう)」を刊行、1934(昭和9)年には、堀辰雄、丸山薫らと詩誌「四季」を創刊し、中心的存在として活躍。「輭花集(かんかしゅう)」「山果集」などを刊行した。
1937(昭和12)年37歳の時、「改造」の特派員として、戦火のくすぶる上海を訪れた。詩風は軽妙体から荘重体に向かい、その成果として、1939(昭和14)年に「艸千里(くさせんり)」を、1941(昭和16)年には「一點鐘(いってんしょう)」を出す頃から詩人としての名声が高まり、「当代ならびなき詩人」と称された。
戦争中は戦争詩、戦争風俗詩と呼ばれる作品も多く書いた。また、古典への回帰も見られる。戦後、「駱駝(らくだ)の瘤(こぶ)にまたがって」「百たびののち」等の詩集で新境地を示した。明治以降、作品が千篇を越えるという詩人は、彼以外にはいないといわれる。また詩友の作品集の編纂にも多く携わった。
1964(昭和39)年4月5日、室生犀星全集編集中に心筋梗塞で急逝した。
その詩は、古典的な抒情をたたえながらも常に清新であり、「万葉にはじまる日本抒情詩の中に一つの近代を確立した」といわれている。墓所は、大阪府高槻市の本澄寺。
三好達治は、家計を助けるために陸軍の学校へ進むが、経済的なリスクの大きい文学の道を選び、結果としては成功する。よほど自信があったのか、よほど取りつかれたのかは不明だが、相当の苦労があったことは間違いない。
企業においても、好きな仕事内容で収入が多いのが良いのは決まっているが、なかなか難しい面がある。しかしどんな仕事内容でも、気持ち次第で好きになることは出来るものだ。言われたことだけを嫌々するより、いろんな工夫をして成果を楽しむようにすればだんだんと好きになっていくものだ。
三好達治のことば
「いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計
昨日の時計はありません 今日を打つのは今日の時計」
三好達治の本
三好達治詩集 (新潮文庫)
巴里の憂鬱 (新潮文庫)
詩を読む人のために (岩波文庫)
天上の花―三好達治抄 (講談社文芸文庫)
駱駝の瘤にまたがって―三好達治伝