会社を支えるのは人だ

出光佐三

きょうは出光興産を創業した日本の石油王 出光佐三(いでみつ さぞう)の誕生日だ。1885(明治18)年生誕〜1981(昭和56)年逝去(95歳)。

福岡県宗像郡赤間村(現 宗像市赤間)に指折りの資産家で藍問屋を営む父 藤六・母 千代の次男として生まれる。
幼児期はきわめて病弱であったが、病との闘いがむしろ強靭な意志力・精神力をつくりあげた。

1901(明治34)年16歳の時、旧制福岡商業に入学するが、ストライキの首謀者となり学校側を屈服させるような実行力・精神力をすでに持ち合わせていた。当然、学校の受けが悪く、卒業時の成績は下から二番目だった。
1905(明治38)年20歳で、神戸高等商業(現 神戸大学)に入学した。在学中に二人の師と出会った。
「黄金の奴隷になるな。士魂商才をもって事業を営め」と説く初代校長 水島鉄也と、「これからの商人は、生産者と消費者を直結し、その間に立ち、相手の利益を考えながら物を安定供給することにある」と述べる内池廉吉教授である。

二人の教えは出光の事業経営のバックボーンとなり、経営理念になった。
神戸高等商業を卒業した佐三は、機械油と小麦粉を扱っていた神戸の「酒井商会」という従業員が三人しかいない小さな商店につとめ、丁稚から始めた。

佐三の選択に、エリート意識の強い同級生や先輩たちは驚いた。最高学府の卒業生が就職するには相応しくない職場で、学校の面汚しだとまで言われた。

しかし、出光には考えがあった。将来の独立のために大切なのは、仕事の基礎を一から覚えることであり、小さな会社の方が仕事を覚えやすい。しかも酒井商店は油を扱っている。出光の目は、すでに、将来性を看破した石油に注がれていた。

最高学府を出ながら丁稚になり、前垂れのはっぴ姿で自転車に乗って集金に駆け回る佐三に興味を募らせた人物がいた。佐三より九歳年上の日田重太郎である。
日田重太郎は淡路島の資産家の養子で、神戸高商時代の出光に息子の家庭教師を頼んだことが縁で知り合い、ときどき佐三の様子を見に来ていた。

そのころ、佐三の実家は家業が傾き、苦しい生活を続けていた。家族のために独立を決意したものの、資金の当てが無かった佐三に、日田は当時のカネで六千円(現在の八千万から九千万円)を、「貸すのではなく、もらってくれ」と申し出た。

資金を提供するにあたって日田は三つの条件を付けた。第一に、従業員を家族と思い、仲良く仕事をしてほしい。第二に、自分の主義主張を最後まで貫いてほしい。第三に、自分がカネを出したことを人に言うな、というものであった。

911(明治44)年6月20日26歳の時、福岡県門司市で「出光商会」の看板をかかげ独立した。事務所の正面には水島校長の揮毫による「士魂商才」の額を掛けた。商品は機械油。

しかし、意気込みに反して商品はまったく売れなかった。窮状打開にもがく佐三は「オ−ダ−油」戦略という新戦略を打ち出した。機械の種類、たとえばエンジンの回転数などによって油の種類をかえるべきだと考え、機械に適した油を調合して販売しようとした。

そのため機械と油との関係を徹底的に調べあげた。中でも漁船の油を既製油から転換させることに成功し、「計量器付給油船」という海上給油装置を開発し、「海賊」と言われながらも、多くの需要を生み出していった。

戦時中、佐三は、出光商会の油が国際石油資本(メジャ−)の油に劣らないことを実験で立証してみせて、満州・朝鮮・台湾の市場を席巻することになった。

1919(大正8)年2月、佐三は厳寒の中国東北部(満州)にいた。長春のホテルの中庭である。零下20度。鼻水をたらすと、たちまち氷の筋になった。
目の前にはコップが三つ置いてあった。コップには油が入っている。汽車の車軸油にする潤滑油である。

三つのコップのうち二つは、スタンダード社とヴァキューム社の潤滑油が入っている。残る一つは出光の会社の油だ。やにわに出光はコップの一つを高くかざして少し傾け、叫んだ。
「見なされ。凍ってはおらん」

出光の油は液状を保ち、他の油は粘度を失い、固体になろうとしていた。南満州鉄道、通称 満鉄はスタンダード社とヴァキューム社から潤滑油を購入していたが、厳寒のため凝結して車軸が焼けるという事故に頭を抱えていた。

潤滑油の実験で勝った出光は、メジャーともセブンシスターズとも呼ばれる巨大外資を追い落とし、大きく飛躍していった。
しかし、敗戦でほとんどの海外資産を失ってしまった。

出光商会は、1940(昭和15)年「出光興産」と社名を変更した。
戦後、石油業界に復帰した「出光」は、1953(昭和28)年5月その名前を世界中に轟かせた。国際石油資本を脱退したイラン国の港に自社のタンカ−日章丸を横づけして直接石油を輸入したからだった。

舞台は神戸埠頭。1953(昭和28)年3月23日早朝、佐三は埠頭の突端に立ち、1万8千トンのタンカーを見上げていた。当時としては最大級のタンカー「日章丸二世」である。行く先はサウジアラビアということになっていたが、本当は同じペルシャ湾内でもイランである。密命を知っているのは、船長と機関長の二人だけだった。

イランはその二年前、英国資本のアングロ・イラニアン社を国有化。英国との関係は険悪になり、国交断絶の状態にあった。英国海軍はペルシャ湾を航行するタンカーの無線を傍受、監視下に置いており、イランから石油を積み出そうとするタンカーがあれば、拿捕も辞さない構えを取っていた。

日章丸は出光が保有するただ一隻のタンカーである。拿捕されたら社運は一気に傾く。しかも、日本は連合国による占領から独立したばかり。連合国の一翼を担った英国の横面を張り倒すような行動に、佐三は打って出たのだ。

神戸を出て18日後、「出光興産所属の日章丸、アバダン入港」の外電が世界中を駆け巡った。世界が注視する中、イラン石油を満載した日章丸は他船との交信を一切止め、ひそかにペルシャ湾を抜け出し、インド洋を横断、約一カ月後、日本に無事到着した。

戦後、力道山が外人プロレスラーを打ちのめし、白井義男がダド・マリノからチャンピオンベルトを奪い、古橋がロサンジェルスのプールサイドに日章旗を掲げたとき、日本人は快哉を叫んだ。しかし、日章丸のイラン石油輸入ほど、敗戦と占領で打ちひしがれた日本人の心を奮い立たせた出来事はないだろう。

当時は、国際石油資本が圧倒的に世界の石油業界を牛耳っており、その重圧にひるまなかった出光興産は、民族資本の先駆者だと世間から喝采をあびた。

当時の新聞によると、
「日章丸なら一隻の積荷で二億円の黒字というのが業界筋の皮算用であった。出光興産は会社の資本金と同額だけまるまるもうかる。出光にしてみれば、途中で船を押えられたり、敗訴すれば4、5千万の損。社運をかけた大勝負」

この大バクチに勝って世界に男をあげた佐三は、今様「紀伊国屋文左衛門」だという評判も取った。1957(昭和32)年72歳の時に徳山精油所を建設し、輸入・精製・販売の一貫体制を整え、「日本の石油王」と呼ばれた。

佐三は、終生「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通した。同社のモット−は、「人間尊重」「大家族主義」「黄金の奴隷たるなかれ」「生産者から消費者へ」である。

いずれも佐三の血のにじむような苦闘のなかから体得し、具現化していったものであった。このうち何といっても光彩を放っているのが大学時代に身につけた「人間尊重主義」と故郷 宗像大社に日本人のあり方の原点を見出し実践した「大家族主義」であった。

そのポイントは、(1)クビ切りがない。(2)定年制がない。(3)出勤簿がない。(4)労働組合がない。という常識を破る「四無」主義であった。

佐三氏はこう語っている。
「店員と会社は一つだ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。人を大切にせずして何をしようというのか」

なお出光興産の東京本社には佐三の郷里の氏神様である宗像神社が祭ってある。また、東京の本社・福岡支社には「出光美術館」の常設展示場があり、書画・唐津焼・古九谷焼・中近東の文物などが多数展示されている。

出光佐三、その行動は奇想天外。常に人の意表をつき、非常識と罵倒される。だが、時が移ると、世の中はいつの間にか佐三の決断になびいていた。
愚直なまでに初志を貫き、大手海外資本を向こうに回し、財務諸表より人を大切にした実業家だった。

企業においても、リスクの大きいプロジェクトを決行する時があるが、リスクに見合う以上のリターンがあれば、社員の結束や達成感により躍進のきっかけに出来る。しかし、リスクやリターンの見込みを誤ると企業の存在も危ぶまれることになる。


出光佐三の本
  出光佐三語録―気骨の経営者
  評伝 出光佐三―士魂商才の軌跡
  馘首はならぬ仕事をつくれ―出光佐三の先見…士魂を忘れた商人国家の末路
  難にありて人を切らず―快商・出光佐三の生涯
難にありて人を切らず―快商・出光佐三の生涯馘首はならぬ仕事をつくれ―出光佐三の先見…士魂を忘れた商人国家の末路