揺れている自分を感じて

浜田彦蔵

きょうは幕末に漂流して渡米した新聞の父 浜田彦蔵(はまだ ひこぞう、幼名:彦太郎、米国名:ジョセフ・ヒコ)の誕生日だ。
1837(天保8)年生誕〜1897(明治30)年逝去(60歳)。

播磨国(現 兵庫県加古郡阿閇村小宮に船頭の息子に生まれた。幼いころ父が病死し、母が隣村の本庄 浜田に再婚したため、後に浜田という姓を名乗るようになった。
1850(嘉永3)年13歳の時、「栄力丸」で江戸を出航し故郷を目指したが、紀伊半島遠州灘で暴風により遭難した。

17人の乗組員たちは、その後52日間もの間漂流し、運よくアメリカの商船「オークランド」号に救助された。アメリカ人たちはみな親切だった。一番若かった彦太郎は、航海中に少しずつ英語に慣れていった。
名前に「蔵」のつくものが多かったため、彦太郎も「ヒコゾ」とか「ヒコ」と呼ばれ、彼は呼ばれるまま「彦蔵」と名乗るようになった。翌1851(嘉永4)年2月サンフランシスコに上陸した。

1ヶ月後、彦蔵たちはアメリカ政府から「日本に帰国させる」由の連絡を受け狂喜した。おりしもこの時、政府はペリーを提督とする軍艦隊を日本に派遣する計画を進めており、タイミングよく迷い込んできた日本人漂流民たちを祖国に送り届けるという名目で、外交のカードに使おうと考えた。

彦蔵たちを乗せた船は香港まで行き、彼らはそこでペリーの船に乗り移って一緒に日本まで行く予定だった。しかし、ペリーは来なかった。
彦蔵は香港の町で一人の日本人に出会った。力松と名のったこの男もまた、過去に日本から漂流してこの地にたどり着いたいわば漂流の先人だった。

力松の語る話に、彦蔵たちは愕然とした。
力松以下漂流者3名を日本に送り届けようとしたイギリス船が、その主旨を伝えたにもかかわらず日本側から砲撃を受け、漂流民たちは祖国を目の前にしながら涙を飲んで香港に戻らざるを得なかったというのである。

不遇の遭難とは言え、いったん日本を出、異国の文化に触れてしまった者は、二度と日本に受け入れてはもらえないのか――。
彦蔵はアメリカに戻ることを決意した。

サンフランシスコに戻った彦蔵は、アメリカ人の水夫仲間に下宿屋などの仕事を紹介してもらい生活を立てていた。このとき税関長をしていたサンダースに認められ、彼のもとに引き取られたことが、彦蔵にとって最大の幸運であった。

地元有力者サンダースの助力によって、彦蔵は基本的な学校教育を受けさせてもらい、1858(安政5)年21歳の時、カトリック教徒としての洗礼を受け、ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)と改名した。この洗礼名が彼の2つ目の通称である。

彼はまた、サンダースとともにニューヨークやワシントンの地を踏み、時の大統領フランクリン・ピアースにも謁見した。もちろん、アメリカ大統領に会った日本人は彼が最初であった。彦蔵は後にブキャナン、リンカーン両大統領にも謁見している。

アメリカに親しみ、父親のようなサンダースの大きな愛に包まれながらも、彦蔵は日本に対する望郷の念を禁じえなかった。1858(安政5)年、日本が開国したことを知った彦蔵は、かねてより親しかったジョン・M・ブルック大尉の申し出を受けて、日本近海の海底調査団の書記に任命され、その船で日本に帰国しようと考えた。

しかし、問題は彦蔵がキリスト教徒として洗礼を受けてしまったということだった。キリシタンに対する幕府の目は開国してもなお厳しかった。
それでも悲願を果たしたい彦蔵は、アメリカに帰化アメリカ人として帰国する道を選択した。こうして、彼はアメリカ市民権を初めて取得した日本人となった。

1859(安政6)年22歳の時、T・ハリス公使に伴われ、通訳として神奈川に帰着。米国神奈川領事館通訳として日米通商条約交渉・使節派遣・ロシア士官水兵殺傷事件など幕末外交界の第一線に活躍した。英語を話せる者の少なかった幕末期、日米両国の橋渡しをした彼の業績は大きい。

彼はアメリカ彦蔵、ヒコダ唐人とも言われたが、9年という長い時を経てようやく帰り着いた祖国は、服装も仕草も異人とかわらぬ風体の彦蔵を同じ日本人とみなしてはくれなかった。彦蔵は、攘夷派の志士に命を狙われるようになり、生命の危険を感じ、再び渡米した。

その後、南北戦争に遭遇し、再度帰国。彦蔵は、命を狙われやすいアメリカ領事館の通訳という職を辞し、横浜の外国人居留地で貿易業を営み、のち長崎・神戸に移った。その間大蔵省出仕(1872明治5年〜1874明治7年)、渋沢栄一のもとで「国立銀行条例」をイギリスのシャンドとともに編さんした。

このとき、彼のビジネスに大いに役立ったのが外国人向けの英字新聞であった。商品相場の変動や各国の動きがわかる新聞の情報は商売に欠かせない。今後の日本にはこのような情報ソースが必要だ、と考えた彦蔵は、英字新聞を日本語に訳して発行することを思いついた。

そして、1864(元治元)年6月27歳の時、日本最初の民間新聞「新聞誌」を創刊した。翌年5月に「海外新聞」と改題したが、金を払ってくれる定期購読者はわずか2名、他は無料で配られたため完全に赤字で、そのうち立ち消えとなった。
この初の試みが、日本の新聞の発祥とされ、彦蔵は「新聞の父」と言われる。

彦蔵はまた、当時の有力者、伊藤博文桂小五郎とも交流があり、当時の日米交渉に大きな役割を果たしたことで知られている。アメリカ大統領リンカーンと握手した唯一の日本人として、直伝の民主主義を木戸孝允らに伝えた民主主義者でもある。しかし、その後は事業に失敗し、通訳や大蔵省勤務などで世を過した。

1897(明治30)年60歳の時、彦蔵は自宅で激しい胸痛に襲われ、そのまま還らぬ人となった。アメリカと日本、2つの祖国を持ち、通訳として多くの重要な折衝の場で両国の橋渡し役を務めた彼は、しかし、最後の最後までその2つの国の間で揺れている自分を感じていた。
13歳の時、あの海難事故にあわなければ、日本以外の国を知ることもなく、こうしてアメリカ人になることなども決してなかったであろう。自分の人生は一体なんだったのか――。

彼はアメリカに辿り着き、アメリカの学校に入り、英語を覚えていったが「男子」をボヲヤ(boy)、「女子」をゲロ(girl)というように英語を覚えたそうだ。

彦蔵は、南北戦争直前のアメリカの風景風俗を「漂流記」という書物で紹介している。その中には、プロレス(もしかしたらボクシング)の紹介もある。
アメリカには角力(すもう:相撲)もあり、また日本にこれなくはケンカ渡世のものなり。これは日本の鶏舎の女のごとく、力を極めて互いに血をそむにいたるまで組み合い、打ち合い、はなはだしきは死に至るものもあり。見物人双方より掛金をなして勝負を楽しみとするなり」

浜田彦蔵は、船の遭難という悲劇に遭ったが、それを機会に2つの祖国において、さまざまな境遇にもめげず生き抜いた人物だ。
人との出会いにも恵まれているが、自分なりに考え最善をつくそうとしている真摯な姿が、周りの人の共感を得ていたのではないか。

企業においても、大きな流れの中で、個人的にはつらい場面も多くあると思われるが、どんな場面であれ、状況を素直に受け入れ、ベストをつくそうとする姿が周囲の人を動かすのではないか。


浜田彦蔵の本アメリカ彦蔵自伝 (1) (東洋文庫 (13))
  アメリカ彦蔵自伝 (1) (東洋文庫 (13))(2)
  南海紀聞 (海外渡航記叢書 (4))