己の美学を失わず

高杉晋作

きょうは江戸幕末の志士 高杉晋作(たかすぎ しんさく、本名:春風、通称:暢夫、号:東行)の誕生日だ。
1839(天保10)年生誕〜1867(慶応3)年逝去(27歳)。

長門萩城下(現 山口県萩市)の菊屋横町に長州藩高杉小忠太・母 道の長男として生まれた。父は200石取りの上士で、小納戸役・直目付などを務めた。晋作は1848(嘉永元)年9歳の時に疱瘡(天然痘)を患った。

1852(嘉永5)年13歳の時、上士の子弟が通う藩校「明倫館」に入学。1857(安政4)年18歳の時には柳生新陰流の免許皆伝を受けた。小柄で痩せた体格で、かなりの修行に打ち込んだようだ。
また同年から「松下村塾」に通い始め、これが吉田松陰との運命的な出会いとなった。この時期に松下村塾は最盛期を迎えており、久坂玄瑞(くさか げんずい)や吉田稔麿(よしだ としまろ)などの秀才も属していた。久坂玄瑞とともに松陰門下の双璧と称せられ、その性格から”暴れ牛”とも呼ばれた。

数ヶ月に渡る通学の後、晋作は1858(安政5)年7月に「昌平黌(しょうへいこう:官立大学に相当する幕府の学問所名で昌平坂学問所の別称)」へ進学するため江戸へ向かった。

1859(安政6)年5月に松陰が評定所から呼び出され、江戸へ送られた。松陰は老中 間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺に加わり、また通商条約反対などを唱えており、幕府から要注意人物とされていた。江戸にいた晋作は松陰に差し入れなどを行うが、情勢を心配した父親の画策によって長州への帰国命令を受けた。

そして10月27日、松陰は江戸伝馬町の獄で処刑された。晋作は松陰から死の直前に「生きて大業を成す見込みがあるならばいつまでも生き、死して不朽の見込みがあるならばいつでも死ねばよい」という教えを受けていた。晋作は11月27日、久坂らと松陰を弔った。晋作に倒幕の決意が初めて現われたのは、この時であった。

1860(万延元)年6月21歳の時、晋作は希望して軍艦「丙辰丸」に乗って江戸へ向かった。江戸に着いた晋作は学問を続けることを望んだが許されず、東北への遊山を経て萩へ帰国することになった。水戸の加藤有隣(かとう ありちか)、松代の佐久間象山、越前の横井小楠(よこい しょうなん)に会って知見を深めた。

1861(文久元)年3月、藩主世子(せいし:跡継ぎ)毛利定広の小姓(将軍身辺の雑用係)として初めて出仕し、7月に番手(城の警護をする兵士)として再び江戸へ向かった。1862(文久2)年4月、藩命によって「千歳丸」に乗り、上海に渡航した。これは、晋作の思想にとって大きな影響を与える任務になった。

この時期の清は、1840年のアヘン戦争に敗れてイギリスの植民地政策を受けており、また1851年から始まった太平天国の乱が続いており、非常にキナ臭い情勢であった。晋作は上海の悲惨な現状を目の当たりにし、他人事では済まされないと実感した。この渡航中に『遊清五録』という手記を残した。

渡航を終え、7月に帰国した晋作は早速、長崎にてオランダ商人から軍艦を購入する交渉を独断で進めた。しかしこれは藩が認めず断念。この頃晋作は長州割拠論を唱えており、水戸の加藤有隣に再び会いに行き議論を交わした。

そして晋作は、そのはけ口を異人に向けた。11月に異人殺害計画を図るも、未然に漏れて世子から叱責された。だが翌12月には品川御殿山のイギリス公使館を、久坂玄瑞伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨:かおる)らとともに焼き討ちした。これは異人殺害が目的というよりは、攘夷に腰を上げない幕府を挑発するためだった。

1863(文久3)年に入ると、長州を中心とする過激攘夷派が朝廷に影響力を持ち始めた。これに危惧した14代将軍 徳川家茂は自ら上洛し、3月には孝明帝の賀茂神社行幸に従うまでに緊迫していた。晋作はこれを見物し、将軍の馬が鴨川に差し掛かったその時「イヨーッ、征夷大将軍!」と野次を飛ばした。

世が世であればその場で切り捨てられる所業であったが、将軍も従者もジロリと一瞥しただけで、そのまま通り過ぎた。それほど幕威は失墜していた。
この出来事の直後、晋作は藩に10年間の賜暇(しか)願を出し、認められた。重臣周布政之助に「お前が世に出るにはまだ10年の時間を要する。その時には力を貸して欲しい」と言われた為だった。

晋作は髷(まげ)を切り、東行と号して萩に戻り、妻と隠遁生活を送った。またこの頃から体調を崩して寝込むことが多くなったが、これが肺結核の前兆だった。
晋作の隠居の翌月から、長州は攘夷を実行に移した。馬関海峡を通過しようとした米・仏・蘭の商船や軍艦に向けて砲撃を加えた。

しかしすぐに報復攻撃を受け、6月初頭にはフランス軍が前田海岸に上陸し、砲台を破壊し村を焼き払った。これに恐れた藩首脳はすぐに晋作を召し戻し、策を求めた。晋作はこれに対して、身分を問わずに有志の士のみで混合軍隊を作ることを提案。下関の廻船問屋 白石正一郎邸を本陣として6月7日に誕生したこの軍隊が、後の明治陸軍の原型となった「奇兵隊」である。

奇兵隊は藩正規の軍である「先鋒隊」と協力して前田海岸などを防備したが、諸外国の緊張がなくなると互いに対立を始めた。そして両隊は8月16日の「教法寺事件」で衝突した。晋作は奇兵隊総督を更迭されるが、処罰は受けなかった。
この月の18日に京都で起きた政変で長州が大きく勢力を削がれると、晋作は遊撃隊総督の来島又兵衛が京都へ進発するのを諌める使者になった。

晋作に耳を傾けない又兵衛に対し、晋作は又兵衛を抑えるための京の調査に、京へ旅立った。しかしこれは脱藩と見なされ、帰国した1864(元治元)年3月、萩の野山獄へ投獄された。この間に京では池田屋事件が起こり、禁門の変や四ヶ国連合艦隊による総攻撃によって長州は大きく勢力を落とした。

また藩内では幕府に恭順する「俗論党」が倒幕路線の「正義派」に取って代わり、同年10月には奇兵隊に対して解散命令が出された。ちなみに四ヶ国との講和会談では晋作が全権を任され、連合国の要求である彦島の租借(そしゃく:借りること)を撥ね付けた。

晋作は出獄後、俗論党の粛清から逃れるために福岡の野村望東尼(のむら ぼうとうに)のもとに潜伏していたが、俗論党の情勢を聞いて帰国。武力による俗論党打破を唱えて諸隊に挙兵を呼びかけた。力士隊、遊撃隊など80人がこれに応じて同年12月15日、下関の功山寺に集結した。晋作は決起するや下関を掌握し、三田尻の海軍までも傘下に加えた。

俗論党政府はこれに対して先鋒隊1000余人を引き連れ、萩から南下。丘陵地帯の絵堂に陣を張った。明けて1865(慶応元)年1月7日、奇兵隊軍監の山県狂介(有朋)がこれを急襲した。先鋒隊は不意を突かれて敗走した。晋作の諸隊は「庄屋同盟」から軍資金援助を受け、この局地戦に圧勝した。この後萩では「中立派」が結成され俗論党は勢力を失った。これが「絵堂・大田の会戦」である。

内乱後も晋作は政府の要職に就かず、2月末に洋航を藩に願い出て認められた。しかし長崎のイギリス商人 グラバーに「幕府はいずれ長州を攻めます。あなたがいなくても長州は大丈夫ですか」と諭され、考え直して長州に戻った。

4月には支藩 長府を直轄地にして増収を図る策を提案したため、長府藩士から命を狙われ、愛妾(あいしょう)おうのを連れて四国へ亡命、讃岐琴平の日柳燕石のもとに潜伏した。この潜伏中に薩摩の西郷の使者が晋作のもとを訪れて「薩摩と手を結べ」と助言したが、晋作はこれを退けた。

6月には再び下関に戻った。この時期、土佐の坂本龍馬中岡慎太郎薩長同盟周旋のために東奔西走していたが、長州側は桂小五郎が窓口となっていた。晋作は別ルートで行動し、新型の銃火器やユニオン号(乙丑丸)の購入を、亀山社中近藤長次郎と相談していた。10月頃から桂とともに同盟成立に尽力し、西郷への不信感を拭い切れない桂を藩命によって上京させるなどの裏工作にも加わった。

1866(慶応2)年1月13日、晋作は坂本に初めて会い、激励の漢詩を扇に書いて贈り、同時に護身用の拳銃も渡した。
21日に薩長同盟が成立したが、その2日後に坂本が寺田屋で幕吏に襲われたとき、この拳銃を使って虎口(こぐち:極めて危険な戦い)を逃れた。

同年6月5日、幕府は2度目の長州征伐に向けて軍を発し、石州・芸州・小倉・大島の四境から諸藩の兵を率いて侵攻した。
晋作は軍艦「丙寅(へいいん)丸」に乗り、幕艦の隙間に入り込んで至近距離から爆撃を行い、陸・海の幕軍を混乱に陥れた。この戦いで長州は勝利を得、「四境戦争」は幕府軍の勢威を大きく落とした形で終了した。

この四境戦争の間、晋作の肺結核は悪化していた。発熱を繰り返し、軍議は晋作の枕元で行われた。また8月1日の小倉城攻略の報告を聞いたあと、喀血し起き上がれなくなった。10月に「東行庵」に移って療養に専念したが病状は悪化する一方だった。1867(慶応3)年3月林算九郎宅の離れに移ったが、4月14日未明、肺結核にて死去。享年27歳。

晋作の背景には、常に吉田松陰の姿があった。志なかばで幕府の手によって生を閉じた松陰の教えを守り、日本が迎えた大変革期における己の生き様を、晋作はその短い人生を使って見事に描ききった。生死を問題とせず、一途に憂国の志を貫き通したその生涯は、維新史上でもまさに一筋の流星のような輝きを放っている。

奇兵隊に名を連ねた士は約560名、そのうち士族出身は約270名で、残りは農民・町民・僧侶・神主などであった。これらが長州の軍政組織として機能し、晋作の死後も戊辰戦争の総指揮官となった大村益次郎(村田蔵六)、続いて「陸軍の長老」として権威を振るった山県有朋へと継承された。

晋作の雅号「東行」は幕府を倒しに東に行くという意味がある。東行庵は下関吉田町の晋作を弔った地に墓守”おうの”の草庵として建てられもの。東行庵の高杉東行碑銘文には初代内閣総理大臣 伊藤博文のことばが記されている。

晋作は百花にさきがけて咲く梅の花をこよなく愛した。また”おうの”は菖蒲が好きだった。今でも菖蒲の花が咲く東行庵を多くの人が訪れる。
新しい時代を見ることなく亡くなった晋作は最後まで詩人であり、幕末を風のように駆け抜けたまさに英傑と呼ぶに相応しい人物だった。

伊藤博文が晋作を評した言葉に、「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん:誰もが驚く)、敢て正視する者なし」があり、東行庵の碑に記されている。この言葉のように、晋作の行動は敏速で、常に相手の先手を打って行動している。計6回に渡る脱藩にも見られるように、議論好きの長州の中では突出した行動力を持っていた。

しかし来島又兵衛の暴走を阻止しようとしたり、功績を挙げたことで増長する奇兵隊士を諌めるなど、思慮深い一面も持ち合わせていた。動くべき時と動くべからざる時の見極めが明確だった。

司馬遼太郎は、晋作の人物評価として、
「晋作は、革命家としての天才は、おそらく幕末随一であったろう。幕末には、坂本、西郷、大久保、木戸(桂)など、雲のごとく人物が出たが、彼らは革命期以外の時代に出ても使い途のある男だが、晋作は、革命期以外には使い途がない。いわば、明治維新を起こすために生まれてきたような男だ」

晋作は大胆な行動ばかりが目立っているが、父親や毛利藩主に対しての忠誠心は、異常なまでに強く、また四百編の漢詩に代表される数々の詩や和歌、俳句などから彼の神経の繊細さが伺える。
最期まで己の美学を失わず、破天荒なその一生を楽しめるだけ楽しみ、27歳の時もはや思い残すことはなかった。

高杉晋作は、長門萩から憂国の幕府を改革した革命児だが、そのあまりにも短い一生は波乱に満ちており、普通の人の一生以上に充実している。しかし考え方によれば、短期間で燃えつくした方が長期にわたって生き抜くより簡単かもしれない。

企業においても、短期決戦をせざるを得ない時があるが、それで終わりというわけにはいかないので、常に長期的な展望が必要となる。
長期を見て短期を攻めるのが鉄則。


高杉晋作の辞世の句
  「おもしろきこともなき世をおもしろく」


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高杉晋作の本
  梅の花咲く―決断の人・高杉晋作 (講談社文庫)
  高杉晋作―幕末長州と松下村塾の俊英 (歴史群像シリーズ (46))
  高杉晋作(上) (講談社文庫)(下)
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  新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)〜(4)
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