答えの代りに

山田孝雄

きょうは国語学者、国文学者 山田孝雄(やまだ よしお)の誕生日だ。
1875(明治8)年生誕〜1958(昭和33)年逝去(83歳)。

富山市総曲輪(そうがわ)に生まれた。富山県尋常中学(現 富山県立富山高等学校)中退。殆ど独学で各種の教員免許を取得、富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を勤めながら、独学により国語学・国文学を研究した。

田舎で教師をしていた時に、生徒から出された「は」についての質問に答えられなかったことから、文法研究を始めたという。このエピソードは、たしかに彼の文法研究の特徴を伝えている。係助詞を中心とした助詞の構文論的研究が、論理学をとりいれた「山田文法」の大黒柱である。
1902(明治35)年27歳のとき、古来の文法学に西洋の文法理論を取り入れた『日本文法論 上巻』(大阪宝文館)を刊行し、同書は6年後の33歳のとき全1巻本として完成した。この『日本文法論』により、1929(昭和4)年54歳のとき、文学博士の学位を受けた。

日本大学教授として国文学科の基礎を形作るとともに、1927(昭和2)年52歳で東北大学教授、1940(昭和15)年65歳で神宮皇学館大学初代学長、1944(昭和19)年69歳で貴族院議員、翌年 国史編修院院長を歴任した。

文法論の分野で独自の論理学的文法体系を構築するなど、国語学・国文学・国史学・書誌学など広い分野にわたり著しい研究成果をあげた。また、国粋主義者として活動したため敗戦後、公職追放にあった。

山田孝雄の研究領域は広範囲にわたり、国語学のみならず国文学・国史学にも及んでおり、まさに「最後の国学者」と呼ぶにふさわしいが、その中でも、中核を占めるのが文法である。豊かな言語事実の分析を基にし、しかも理論的にも整合性の高い、雄大な文法体系を築きあげた。

著書に、『平家物語につきての研究』『奈良朝文法史』『平安朝文法史』『日本文法講義』『日本口語法講義』『一切経音義索引』『萬葉集講義』『連歌概説』『五十音図の歴史』『桜史』『国語学史』『三宝絵略注』『俳諧文法概論』など。

山田孝雄には、忠雄、英雄、俊雄という3人の息子がいるが、「父からは教えを受けることはなかった。中学のとき、あることを聞いたら、答えの代りに、これを読めと言って、ドッサリ本を渡されてウンザリしたことがあったので、避けていたせいもある」(次男 英雄)。これが山田家の教育方針であったようだ。ちなみに親父は中学中退だが、息子は3人とも東京帝国大学卒。

企業においても、社員教育は重要な位置をしめるが、集合教育や座学よりもOJT(On the Job Training)のような現場教育がより重要である。何と言っても、上司や先輩が行動として範を見せることが教育の基本である。


山田孝雄のことば
 「思想を基として、その思想に適応すべく国語を運用する法則即ち文法たるなり」


山田孝雄の本
  倭漢朗詠集 (岩波文庫)
  お伊勢まいり (とんぼの本)
  近代日本の倫理思想
  奈良朝文法史
  神皇正統記 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版)
  櫻史 (講談社学術文庫)
  新訂 倫理学概説
  日本文法学概論
  世界言語学名著選集 (第3期東アジア言語編2第1巻)
世界言語学名著選集 (第3期東アジア言語編2第1巻)櫻史 (講談社学術文庫)神皇正統記 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版)