技術を活かす人造りこそ

大島高任

きょうは釜石製鉄所を建設した日本近代製鉄業の父 大島高任(おおしま たかとう、幼名:文治、周禎、総左衛門、1869明治2年43歳のとき高任と改名)の誕生日だ。
1826(文政9)年生誕〜1901(明治34)年逝去(74歳)。

南部藩(現 岩手県盛岡市)の侍医 大島周意・千代の長男として生まれた。1842年(天保13)年16歳の時、江戸に出た。そこで箕作阮甫(みつくり げんぽ)・坪井信道(つぼい しんどう)に蘭学を学んだ。つづいて20歳の時、長崎に行き医学の勉学の傍ら蘭学を学び、高島浅五郎から西洋の兵法・砲術を学んだ。

長崎で出会ったのがオランダのヒュゲェニンの製鉄技術書「西洋鉄鉱鋳造編」だった。彼は大変な勉強家で、それを翻訳しながら西洋の採鉱・冶金術など製鉄技術をつぶさに学んでいった。医者の息子として初めは医術を学ぶ目的での長崎であったはずであるが、次第に西洋の兵法や砲術、そして採鉱・冶金学へと興味をひかれていくのは、当時の世界情勢を敏感に感じ取っていたからであった。
当時日本は鎖国をしていたが、1853(嘉永6)年6月にペリーが浦賀に来航して以来、外国の鉄の船や大砲に脅威を感じ、幕府は軍艦や大砲の製造を許可した。

高任は、西洋砲術の実地訓練も受けて免許も持っていたため、1853年(嘉永6)年28歳の時、水戸藩徳川斉昭に招かれ、那珂湊(現 茨城県ひたちなか市)への反射炉の建造に参画した。1856(安政3)年、大砲鋳造には成功したが、従来の砂鉄を原料としたものは上質の鋳造が難しく、砲身に亀裂が生じ西洋の大砲に太刀打ちできなかった。そこで彼は、釜石にある良質の鉄鉱石に注目した。

そして、南部藩の大橋(現 釜石市甲子町)に西洋式高炉を建設することを計画した。反射炉の建造さえ困難であった当時、洋式高炉を築造して鉄鉱石から銑鉄をつくることは技術的にも経済的にも至難のことだったが、高任はガムシャラに挑戦していった。

高任の性格は、「粗を嫌いながら、頭は柔軟」であった。外国の技術をそのまま鵜呑みにせず、伝統的な「たたら製鉄」の技法を巧みに取り入れ、地元の大工や鍛冶屋の意見を十分取り入れて技術を改良した。ふいご、水車などの工夫は、蘭書には書かれていない技術だった。

そして、1857年(安政4)年12月1日、大島高任が築造したわが国最初の洋式高炉 釜石の大橋高炉が、みごと鉄鉱石精錬による出銑に成功し、日本近代製鉄の夜明けを告げた。
その後、高任の指導で、釜石地域5ヶ所に10座の高炉が築かれた。この地域に数多くの高炉が築かれた背景には、原料の磁鉄鉱石や木炭燃料となる森林が豊富にあったこと、高炉を築くための花崗岩や、水車を廻すための水源にも恵まれていたこと、などがある。

そののち高任は、盛岡藩に帰藩し八角高遠(やすみ たかとう)らとともに蘭学・医学・物理・化学・兵術・砲術を学ぶ塾『日新堂』を創設した。塾生には田中館愛橘新渡戸稲造等の名前もあった。技術を活かす人造りこそが国家の基本と考えたためであった。

明治維新で新政府に採用された高任は、木戸孝允(きど こういん)、大久保利通(おおくぼ としみち)に随行して欧米の鉱業を視察した。帰朝後、全国の鉱山をまわって指導・監督にあたり、時には経営にも参加し、日本の鉱業近代化に大きな役割を果たした。

高任は『鉄都・釜石』の礎となる官営釜石製鉄所の建設に尽力するとともに、ワインの国産醸造の先駆など多方面にわたり活躍し、大蔵一等技監、佐渡鉱山局長、日本鉱業会初代会長も歴任した。また石炭採掘坑師学校(鉱山学校)の創設をした。
高任は文字通り日本の近代製鉄業の第一頁をつくった先覚者、「日本近代製鉄業の父」であり、「もし高任なければ日本の近代製鉄は数十年遅れ、日清、日露の戦争も戦えなかった」と言われている。

大島高任は洋式高炉が成功した後、「自分のやったことは過去の遺物」と言っている。そして、明治初頭に岩倉使節団の一員としてドイツを訪問、先進技術を目の当たりにするや、フライベルク大学で勉強し直している。時に47歳。帰国後は、釜石に官営製鉄所を造るに当たり、ドイツ人と堂々と論争するまでになっていた。まさに徹底した勉強家だったようだ。

企業においては、いくら現場主義とは言っても、本の一ページも読まないでは済まされない。本を読んでは考え、人の話を聞いては考え、現場で体験しては考えるように、何からでも学ぶ姿勢を大切にしたい。


大島高任に関する本
  幕末明治製鉄論
  みちのくの鉄―仙台藩〓屋製鉄の歴史と科学
  洋式製鉄の萌芽―蘭書と反射炉 (アグネ叢書)