大成したバネになって

高橋誠一郎

きょうは経済学者、経済学史学者 高橋誠一郎の誕生日だ。
1884(明治17)年生誕〜1982(昭和57)年逝去(97歳)。

新潟県に生まれた。1898(明治31)年14歳のとき慶応義塾普通部に入学、1908(明治41)年3月23歳のとき大学部政治科を卒業して、慶応義塾普通部で教鞭をとり、翌年4月から大学部の予科教員となった。

911(明治44)年5月27歳のときヨーロッパに留学したが、病のため1912(大正元)年9月帰国した。1920(大正9)年4月35歳で経済学部教授兼法学部教授となり、1933(昭和8)年12月から1944(昭和19)年3月まで図書館監督を兼ねた。その間、1934(昭和9)年4月から1938(昭和13)年3月まで経済学部長を務めた。
いわゆる慶應義塾大学の看板教授として小泉信三と並び称せられた。専攻は経済学史であるが、単なる理論史ではなく、重商主義期を中心に哲学、思想、政治をも視野に入れた壮大な研究を展開した。

軍国主義の展開とともに、次第に書誌学的研究に集中し、あえて思想を語らぬ道を選んだ。1944(昭和19)年4月、大学名誉教授兼大学経済学部講師。1946(昭和21)年62歳の時には、戦災で負傷し病気療養中の慶応義塾小泉信三の残りの任期を、塾長代理・大学総長となった。

1950(昭和25)年以来1970(昭和45)年まで引きつづき評議員に選ばれている。1976(昭和51)年5月92歳のとき、義塾命名百年記念式典に際して名誉博士の称号が授与された。

塾外にあっては、1947(昭和22)年に、第一次吉田内閣の文部大臣となって教育基本法の制定にあたった。同年2月 帝国学士院会員、1948(昭和23)年8月 日本芸術院院長、1949(昭和24)年10月 国立博物館長、1950(昭和25)年8月 文化財保護委員会委員長等を歴任した。

学殖(がくしょく:学問の素養)が深く、博覧強記(はくらんきょうき:ひろく古今東西の書物を読み、物事をよく記憶していること)、話術に巧みな人柄は、多くの団体・委員会の長にふさわしいものであった。

高橋誠一郎は、よきライバルとして小泉信三がいるが、小泉信三は高橋より4歳年下だが早くに塾長になっている。福沢諭吉の片腕 小泉信吉の息子ということが大きいのだろう。そして高橋は1年余り信三の代理を務め、次期 塩田江次に引き継ぐ。高橋は悔しい思いをしただろうが、それが学者として政治家として大成したバネになっているのかもしれない。

企業において、昇進・昇格の早い遅いは普通の人ならいちばん気になるところであり、これが業務にも大きく影響する。人事権を武器に部下を服従させる上司も多いが、いまや終身雇用制も変わってきているし、能力評価制によりいつ上下が逆転するかもしれない状況において、人事権を振り回すのは業績を停滞させるだけで得策ではない。また、昇進・昇格に一喜一憂することだけに終始している人は管理職の器ではない。


高橋誠一郎のことば
  「個性豊かというのは、単なる個人的のものばかりでなく、
   日本の国民性の十分に現れた文化の創造という意味だ」
  「個人の尊厳を認め、個人の価値を認めていかなければならぬ」


高橋誠一郎の本
  高橋誠一郎経済学史著作集 (第1巻):(第4巻)
  芝居のうわさ
  虎が雨
  欧化と国粋―日露の「文明開化」とドストエフスキー (比較文明学叢書)
  「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機
  「罪と罰」を読む―“知”の危機とドストエフスキー
  司馬遼太郎の平和観―『坂の上の雲』を読み直す
  この国のあした―司馬遼太郎の戦争観
  随筆慶応義塾―エピメーテウス抄(正、続)
この国のあした―司馬遼太郎の戦争観司馬遼太郎の平和観―『坂の上の雲』を読み直す欧化と国粋―日露の「文明開化」とドストエフスキー (比較文明学叢書)芝居のうわさ