文化の違いに悩んで   

高村光太郎

きょうは詩人、歌人、彫刻家 高村光太郎の誕生日だ。1883(明治16)年生誕〜1956(昭和31)年逝去(73歳)。

東京の下谷西町に生まれた。父 光雲(こううん)は著名な彫刻家で、帝室技芸員東京美術学校(現 東京藝術大学)教授を務め、上野公園の西郷隆盛像や皇居前の楠木正成(まさしげ)像などの作者として知られている。光太郎は光雲の長男だが、三男 豊周(とよちか)も鋳金家として知られ、芸術院会員・人間国宝となった。

光太郎は、彫刻家の父の影響と、日本画を学んでいた姉の影響を受け、幼いころより美術に親しみ、7歳頃から木彫用の小刀を手にしていた。1902(明治35)年、東京美術学校 彫刻(木彫)科を卒業した。彫刻以外にも絵画や詩等でもいかんなく才能を発揮し、在学中に短歌結社 新詩社に入って「明星」に短歌を発表している。
1904(明治37)年21歳の時、ロダンの彫刻「考える人」の写真を見て感銘を受け、自らの彫刻の文学臭を反省した。1906(明治39)年渡米、ニューヨークでアカデミー・オブ・デザイン、アート・スチューデンツ・リーグで彫刻を学ぶ。この頃 荻原碌山(おぎわらろくざん・守衛=もりえ)を知った。翌年ロンドンに渡り、次いでパリに移りグランド・ショミエール研究所に通った。この間に造形の理法について深く感得するところがあり、また自我の強い目覚めを自覚した。

1909(明治42)年帰国。若い芸術家たちの集まりであった「パンの会」に積極的に参加して、青春の熱気を燃え立たせ、既成美術界の悪習を執拗に批判するなど新時代の美術を盛んに主張した。
光太郎は1911(明治44)年28歳の時、女流画家の長沼智恵子と出会った。2人は共に生き、愛し、美を生み出しあう関係へとなっていった。
1912(明治45)年駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品した。

1914(大正3)年31歳の時、詩集「道程」を自費出版した。同年、恋人 長沼智恵子と結婚した。この頃から美術界と交渉を断って、彫刻と「ロダンの言葉」の翻訳に力を注いだ。1916(大正5)年、訳編「ロダンの言葉」を刊行。以後1920(大正9)年「続ロダンの言葉」、1927(昭和2)年評伝「ロダン」を刊行した。

1929(昭和4)年、智恵子の実家が破産した。この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、後に精神に異常をきたした。1934(昭和9)年、精神病の療養のため2人は九十九里浜を訪れた。そこで光太郎は「千鳥と遊ぶ智恵子」「風に乗る智恵子」など智恵子に対する限りない愛をいっぱいに注いだ詩を残した。1938(昭和13)年55歳の時、智恵子は亡くなった。1941(昭和16)年、智恵子への想いを詩集「智恵子抄」に集約し刊行した。

1938(昭和13)年、文学報国会詩部会会長に就任した。この前後から戦争詩を書き、戦争協力の姿勢を強めた。1945(昭和20)年4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが消失した。同年8月の敗戦を迎えて戦争責任を痛感し、岩手県大田村の小屋で謹慎、自炊生活に入り、詩集「典型」を制作した。1952(昭和27)年、「裸婦像」(十和田湖畔記念像)制作のため帰京、翌年完成した。この仕事が最後となった。

光太郎は、米・英・仏から帰国後、それらの国と日本の文化の違いに悩んでいる。また後年、智恵子を亡くしたとき精神的なむなしさでやりきれない時期を過ごしている。しかし、このような時にすぐれた作品が生まれていることも確かだ。

企業人であっても、いろんな場合で思い悩むことがあるが、それを乗り越えたとき、より大きな仕事ができるのではないか。耐えながらもあきらめずに乗り越える努力をすることだ。


   智恵子


高村光太郎の本
  高村光太郎全集〈第1巻〉〜(18)
  高村光太郎詩集 (新潮文庫)  
  智恵子抄 (新潮文庫)
  高村光太郎―智恵子と遊ぶ夢幻の生 (ミネルヴァ日本評伝選)
  高村光太郎論―典型的日本人の詩と真実
  

高村光太郎論―典型的日本人の詩と真実高村光太郎―智恵子と遊ぶ夢幻の生 (ミネルヴァ日本評伝選)智恵子抄 (新潮文庫)高村光太郎全集〈第1巻〉