感謝の心を示す   

磯野長蔵

きょうは経営者、キリンビール創業 磯野長蔵(いその ちょうぞう)の誕生日だ。
1874(明治7)年生誕〜1967(昭和42)年逝去(93歳)。

鳥取県倉吉市で生まれた。三島家の4人兄弟の3番目で次男だったため、9歳の時、松本仁平の養子に出された。子供の無かった松本に深い愛情を注がれるが、長蔵は決して実家のことを忘れたわけではなかった。
17歳の時、突然中学を辞め、単身上京し高等商業学校(現一橋大学)を受験する。この時、長蔵の頭にあったのは実家三島家の家業を手伝いたいという思いだった。呉服屋の三島家は新たに製糸業を始めていた。しかし、長蔵の実父は突然病に倒れ、長蔵の兄一人に家業が重くのしかかっていた。これ以上、中学で基礎教育を受けるより、上京して商事の研究をして、兄の手助けをすること、それが長蔵の三島家への恩返しだった。
しかし、世の中は甘くない。田舎育ちの長蔵は高等商業学校の入学試験の難問に全く歯が立たなかった。受験に失敗した長蔵は一年間東京商業予備門に学んで、翌年には無事合格し、一橋大学の門をくぐった。
一橋で長蔵はよき先輩、友人にめぐまれる。それは同じ鳥取中学出身の面々だった。長蔵は学業にいそしみ、1877(明治30)年 好成績で高等商業学校を卒業する。
だが、この間、長蔵は次々と不幸に襲われた。 1871(明治24)年12月、実父を失い、ついで1875(明治28)年11月、義父松本仁平を失う。また、1874(明治27年)11月、長蔵自身も、その当時不治の病と呼ばれた肺病にとりつかれる。翌年3月には一応回復したが、就職後もたびたび再発して、長蔵を生涯苦しめ続けた。

卒業後、長蔵は実家に戻り、兄の製糸業を手伝うが、半年後の翌1878(明治31)年1月には、再び上京して輸出入商 磯野商会に入社する。入社した長蔵にある1つの出会いが訪れる。それは、磯野菊との出会いだった。1902(明治35)年、長蔵は菊と結婚する。菊は磯野計(はかる 明治屋・輸出入商 磯野商会社長)の長女だ。すでに計は没していて、後継ぎはいなかった。
そこで、義父の家督を継いでいた長蔵は、家督を他の人間に譲り、磯野家を継ぐこととなった。長蔵は明治屋の副社長に就任し、社長の米井源次郎とともに明治屋の基礎を築く。さらに、1919(大正8)年、米井が没すと、長蔵は明治屋の社長に就任し、死ぬまで明治屋の発展に尽力した。

また、長蔵には明治屋の社長とは別の顔がある。長蔵は麒麟麦酒株式会社(現キリンビール)の社長も兼任した。長蔵は1907(明治40)年の麒麟麦酒株式会社設立以来、1962(昭和37)年、会長を辞して相談役となるまで、1日も休まず社業に専念した。
キリンビールというと現在は優良企業だが、当時長蔵は幾多の困難に出くわした。昭和初期、不況と過剰設備を抱えてビール業界が陥った未曾有の混乱。業界秩序回復のための麦酒共同販売株式会社の設立。戦時戦後、原材料不足によるビール生産の危機。いずれの時においても、長蔵は的確な見通しと周密な判断によって、危機を脱出した。
長蔵の経営方針を端的に示す1つの言葉がある。「商売人が売場を広げるんならいい。しかし倉庫を広げると便利なので、しぜんとそのスペースに商品を積んでしまう。だから賛成できない」。これは倉庫を増改築したいという社員に対する長蔵の反論だ。この言葉には、長蔵の「品質本位」、「堅実経営」の姿勢が読み取れる。また、卸売業を営む明治屋に、キリンビールの商品を独占して卸す等、両社の相互補完的関係を築いた。

長蔵は明治屋キリンビールの経営によって莫大な富を得る。だが、長蔵はその富で私利私腹を肥やすことを決してしなかった。1954(昭和29)年、出身地である鳥取県倉吉市に(財)三松奨学育英会を創設する。また、1962(昭和37)年3月、米寿を迎え、巨額の私財を寄附し母校一橋大学に磯野研究館を建設した。
このとき一橋大学は深刻な教官の研究室不足に悩まされていて、文部省に研究館建設を申請し続けるも、埒があかなかった。このことを知った長蔵は、高橋泰蔵学長を明治屋に招き、研究館建設の旨を伝えたのだ。研究館は、文部省に申請していたものに比べて2倍の規模、3倍の経費のもので、社会科学の進歩に応じる諸設備をもつ、最も理想的なものだった。

長蔵の実業家としての基盤を築いた一橋大学への感謝の心を示す磯野研究館。その中で今も、教授の試行錯誤が繰り広げられている。
以上 一橋大学のホームページから引用

磯野長蔵のことば「売場を広げるんならいい。しかし倉庫を広げるのは賛成できない」は、改善の鉄則で、在庫を増やすばかりでコストアップになる。この考え方は、事務所の拡張や人員の増員、設備や工具の購入などにも応用できる。
改善は「やめる、減らす、変える」が原則だ。

明治屋キリンビール☆
長蔵の義父 磯野計は、1858(安政5)年美作国津山(現 岡山県津山市)で生まれ、東大卒業後、三菱の給費留学生として英国へ留学。帰国後三菱会社へ就職した。
1885(明治18)年三菱会社が日本郵船となり、輸入品を扱う部門を「明治屋」として独立させ、磯野計を社長にした。磯野はビールに着目し、ジャパン・ブルワリーと交渉した。

「ジャパン・ブルワリー」の始まりは、1870(明治3)年、米国人 W・コープランドが横浜に「スプリング・バレー・ブルワリー」を開設し、一旦閉鎖したが、1885(明治18)年、英国人 J・ドッズ、T・B・グラバーらが「ジャパン・ブルワリー」として再建した。岩崎弥之助渋沢栄一らが出資した。
1888(明治21)年、キリン・ビール ブランドでビールを発売し、販売は磯野計の明治屋が担当した。この頃、外国法人は日本国内で直接販売できなかった。

1907(明治40)年、明治屋はジャパン・ブルワリーを買収し、新会社「麒麟麦酒」(現 キリンビール)を創立した。社長 米井源次郎、副社長 磯野長蔵。販売は明治屋だったが、1927(昭和2)年一手販売契約は解消した。
    磯野 計

磯野長蔵に関する本
  キリンビールの変身―ライフ・インダストリー革命への挑戦
  キリンビールの大逆襲―麒麟淡麗「生」が市場を変えた! (B&Tブックス)
  アンラーニング革命―キリンビールの明日を読む
  新キリン宣言―キリンビール復活のシナリオ
  ビールと日本人―明治・大正・昭和ビール普及史 (河出文庫)
  会社の企画力―キリン対アサヒ、死闘の教訓 (カッパ・ビジネス)
新キリン宣言―キリンビール復活のシナリオアンラーニング革命―キリンビールの明日を読むキリンビールの大逆襲―麒麟淡麗「生」が市場を変えた! (B&Tブックス)キリンビールの変身―ライフ・インダストリー革命への挑戦