明確なビジョンを   

御手洗毅

きょうは経営者、キヤノン創業 御手洗毅(みたらい つよし)の
誕生日だ。
1902(明治35)年生誕〜1984(昭和59)年逝去(82歳)。

大分県南海部郡蒲江町(現 佐伯市)で生まれた。北海道帝国大学を卒業、1937(昭和12)年に京都帝国大学より医学博士の学位を受けた。1929(昭和4)年27歳の時に上京し、国際聖母病院の勤務医を経て、東京目白に御手洗産婦人科病院を設立、1945(昭和20)年43歳まで経営を継続していた。

一方1933(昭和8)年、当時の東京市麻布区六本木にあった竹皮屋ビル3階のアパートに、高級カメラの製作を目的とする「精機光学研究所」が設立された。ドイツのライカに負けないカメラ作りを目指して、カメラ好きの青年 吉田五郎が、その熱き志をもって、義弟の内田三郎と共同で興した研究所だった。
この研究所を資金面で支えたのが、内田三郎と親交のあった御手洗毅で、精機光学研究所を設立する時に出資を依頼され、吉田五郎のカメラづくりに共感し、監査役として参加した。
1942(昭和17)年頃、戦争も暗い影をなげかけ、内田三郎は、シンガポールに徴用され、不安に感じた役員たちが、監査役の御手洗毅に社長の就任依頼をした。

1934(昭和9)年、国産初の35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラの試作ができた。名称は、吉田が信仰していた観音様からとって「カンノン」と付けられ、同年6月の「アサヒカメラ」に「KWANONカメラ」として広告を出した。

戦時中は軍の指定工場で、カメラのような平和産業では食ってはいけなかった。そこでキヤノンは、簡易型のX線胸部間接撮影装置を製作した。陸軍では結核にかかる兵隊が多く、この装置で早期に発見し隔離して部隊に結核が蔓延するのを防いだ。陸軍という大きなスポンサーを得て、キヤノンは戦時の経営を乗り切った。

御手洗は、開業医と社長業を両立して多忙な生活を送っていたが、終戦になり、社長業に専念する決断をした。
戦後間もないころ、日本製の工業製品といえば粗悪品というイメージが強く、アメリカではメード・イン・ジャパンでは売れないとまでいわれていた。しかし、御手洗は、あくまで初心を貫こうと「打倒ライカ」をビジョンとして掲げ、世界一の高級カメラ作りに情熱を注いだ。

1947(昭和22)年、社名をカメラのブランド名と同じ、キヤノンカメラ株式会社に変更した。社名変更理由は、製品名と会社名は同じにした方が明確で得策だ、という単純明快な発想によるものだった。また、1949(昭和24)年、株式を上場した際、上場会社では片仮名の社名は稀だった。

戦後すぐの日本では、将来の夢より、今日明日の飯を食うために、なべ釜のような生活必需品を作って飢えをしのいでいたのが実情で、そんな時代にカメラで世界一になる夢を打ち出した御手洗は、筋金入りの偏屈者であり、理想主義者である。
その理想主義がたたって、キヤノンのカメラは、世界一になるどころか、後から参入したかつての仕入先でもあるニコンにすら後塵を拝することになった。
まさしく、理想ばかり高かったキヤノンだけが、戦後日本のカメラ業界の中で出遅れたことになった。

しかし、「経営の素人」を公言した御手洗は、これまでにない、ざん新な経営革新を着々と推進しつつ新商品の開発を進めていった。
御手洗は、経営革新の一環として、1943(昭和18)年 当時としては画期的な工員の月給制を導入したり、自社開発したX線間接撮影装置で社内集団検診を実施した。また、1966(昭和41)年に日本で初めて週休二日制を導入するなど社員を大事にした。

次第に努力が実を結び、時代はキヤノンにチャンスを与えた。それが、ヒット商品の開発である。理想が高かった御手洗は、人材だけは優れた人を引っぱって来た。もと海軍省陸軍省にいた優秀な技術者を積極的に採用したのだ。この新しい技術者の流入が、キヤノンにヒット商品を生み出し、カメラで世界一になる夢を現実のものにさせることになった。

御手洗は「社業の発展は事業の多角化にほかならない」という企業論を実践し、1967(昭和42)年65歳の時に、「右手にカメラ、左手に事務機」の経営スローガンを掲げ、これまでカメラ一筋だったキヤノンの事業の多角化を推進した。さらに、「世界一の製品をつくり、文化の向上に貢献する」「理想の会社を築き、永遠の繁栄をはかる」など、現在のキヤノンの企業理念の基礎となる方針を次々と打ち出した。

御手洗は、カメラ関係を主要として光学機器、事務用機器、しいては身体障害者への福祉を目的とした視聴覚補装具分野にも進出し、各分野での先見性の目と優れた指導力でまたたく間に大きく飛躍した。
1955(昭和30)年53歳の時には一年間、通商産業省の顧問を勤め、1965(昭和40)年63歳の時には総理府貿易会議専門委員にも任命された。その後、数々の公職も兼務、我が国の産業の育成、発展に尽力した。

御手洗は、「打倒ライカ」という明確なビジョンを言い続けるとともに、社員を大切にする経営により、世界のキヤノンをゆるぎないものにしている。
企業にとって、経営理念は最重要だが、明確なビジョンにより、社員一人ひとりの方向付けを行うことが大切だ。


御手洗毅に関する本
  キヤノン式―高収益を生み出す和魂洋才経営 (日経ビジネス人文庫)
  目で見てわかるキヤノンの大常識 (B&Tブックス―今日からモノ知りシリーズ)  
  革新カンパニー キャノンの挑戦と成功 (創造挑戦改革に挑んだ経営者たちの物語)
  創業―なぜ消えた!?キヤノンの創業者
  往年のキヤノンカメラ図鑑 エイ文庫


往年のキヤノンカメラ図鑑 エイ文庫革新カンパニー キャノンの挑戦と成功 (創造挑戦改革に挑んだ経営者たちの物語)目で見てわかるキヤノンの大常識 (B&Tブックス―今日からモノ知りシリーズ)キヤノン式―高収益を生み出す和魂洋才経営 (日経ビジネス人文庫)


     国産初35mmカメラ「KWANON」1934年