社会の風潮にも支えられ  

吉岡弥生

きょうは医師、教育者、東京女子医大を創立した 吉岡弥生の誕生日だ。
1871(明治4)年生誕〜1959(昭和34)年逝去(88歳)。

遠江国城東郡土方村(現 静岡県小笠郡大東町)で、医師・鷲山養斉と後妻のみせを親として、裕福な家に生まれた。弥生の父が養子となった鷲山家は醤油屋であったが、医者の養斉を迎えるにあたり、醤油家業を廃止し医業を営むことになった。生みの母・みせは、榛原郡萩間村の庄屋の出であったが、丙午生まれの嫁は夫を若死させるという迷信のために婚期が遅れ、3人の幼い子持ちの後妻となった。父・養斉28歳、母・みせ24歳の見合い結婚だった。弥生を含めて7人の娘が生まれた。

1889(明治22)年、土方村ではおそらく初めての女子として小学校を卒業、当時としてはめずらしい女性医師を志して上京。本郷湯島の「済生学舎」に入学した。そして1892(明治25)年21歳のとき難関の医術開業試験に合格した。
1895(明治30)年には野口英世が済生学舎に入学している。
弥生は、1895(明治28)年24歳の時、東京至誠学院でドイツ語を学んだ。同年、院長吉岡荒太と結婚した。1897年には東京至誠学院の向かいに「東京至誠医院」を開設したが、荒太が病気になり、至誠学院を閉鎖し至誠医院の経営に専念した。
「済生学舎」は長岡藩出身の長谷川泰(はせがわやすし)が、大学に行かなくても医者になれるルートを確保するため東京・本郷に設立した。入学試験も卒業試験もなく、授業料を支払えば誰でも入学して受講でき、講義の多くは大学の教師による出張授業であった。医術開業国家試験に合格した時が卒業で、合格するまで何年でも在籍できるという、ユニークな学校だった。

1898(明治31)年 女子に唯一門戸を開いてきた済生学舎が、風紀問題と専門学校への昇格のため、女子の入学ができなくなった。弥生は、1900(明治33)年29歳の時、恩師長谷川泰の勧めと学業途中で済生学舎を締め出された女子学生の前途を思い、東京至誠医院の一室に「東京女医学校」を創設した。そして1908(明治41)年には第一回卒業生を女医として世に送り出した。その4年後には専門学校に昇格し東京女子医学専門学校となった。弥生が学生のために自分の出産を見学させた逸話は有名である。
1952(昭和27)年、新制大学として認可され現在の東京女子医科大学となった。

弥生は、1922(大正11)年51歳のとき夫・荒太を失った。享年55歳。
1927(昭和2)年頃から数多くの公職をを歴任、幅広い社会的活動に尽力した。
戦後1947(昭和22)年76歳のとき教職追放処分を受け、東京女子医学専門学校校長を辞任、自分の育てた学校にも病院にも立ち入ることができなかった。4年後 追放を解除され、1952年 東京女子医科大学学頭に就任した。

弥生は学校経営だけでなく、すぐれた人材を見抜く能力が高かったようだ。弥生宅で女中をしていた羽仁もと子は、弥生に潜在能力を認められた。彼女が弥生の使用人になっていたことは、羽仁自身が自伝で公表したことで、弥生自身は公言しなかった。
また佐藤やいは、1915(大正4)年、富山から上京し、東京女子医学専門学校の事務所の書生だった。弥生は彼女を見込んで夜学に通わせた。やいは、のちに東京女子医学専門学校の助手から教授へと昇任し、65歳で死去するまで女医のリーダー格的存在だった。

弥生は、明治においてすでに医師という専門職を持って生きた数少ない女性の一人だ。弥生は自ら女性にふさわしい職業としての女医の道を選び、全国から集まる入学者に対し「医者を作るのではなくて、女医を養成する」と、明確な目的意識を持って教育にあたった。

家が裕福であり、先進的な考え方の親であったから、弥生の夢が実現できたのも事実だが、明治維新後の、外国に遅れてはいけないという社会の風潮にも支えられていることは確かだ。
企業においては、男女平等の問題だけでなく、今後は高齢者の雇用問題、国や言語の違い、文化や宗教の違いなど考えていかなければならない課題は多い。


吉岡弥生の本
  吉岡弥生選集 (1)
  婦人に与ふ (叢書 女性論)
  吉岡弥生―吉岡弥生伝 (人間の記録 (63))
  吉岡弥生伝―伝記・吉岡弥生 (伝記叢書)
  愛の天使をゆめにみて―女性のための医学校をつくった吉岡弥生 (PHPこころのノンフィクション 30)
  済生学舎と長谷川泰―野口英世や吉岡弥生の学んだ私立医学校
吉岡弥生―吉岡弥生伝 (人間の記録 (63))吉岡弥生選集 (1)