本質に触れる   

梅原龍三郎

きょうは近代日本の代表的な洋画家 梅原龍三郎の誕生日だ。1888(明治21)年生誕〜1986(昭和61)年逝去(97歳)。

京都市下京区で呉服の図案・染色を営む宇治屋の次男として生まれ裕福な生活をした。1903(明治36)年15歳の時 画家の道を夢見て京都府立第二中学校を退学し、伊藤快彦(よしひこ)の画塾に入った。その後 安井曽太郎とともに浅井忠の聖護院洋画研究所に移り、1906年18歳の時、浅井が関西美術院を設立すると、そちらに移った。
1908(明治41)年20歳の時から5年間、田中喜作とともに渡仏し、アカデミージュリアンで学んだ。そこでルノワールの絵に接し感動、師事した。また友人からピカソにも紹介してもらう。

1913年25歳のとき帰国、東京に住んだ。神田のヴィナス倶楽部で白樺主催個展を開き、「首飾り」など滞欧作110点を発表して注目を集めた。渡欧中にはルノワールの影響を受けた画風の絵を描いたが、帰国後は日本的な画風で描くようになった。翌年、二科会創立に参画(1918年退会)。この年亀岡艶子と結婚、長女紅良と長男成四が生まれた。

1919(大正8)年31歳のときルノワールの死を知って衝撃を受け、翌1920年忌問のために渡欧した。1922(大正11)年34歳の時、小杉未醒(みせい 放菴:ほうあん)らと春陽会を結成するが、1925年同会を退会した。1926(大正15)年 国画創作協力会に迎えられ川島理一郎らと洋画部を新設した。1928(昭和3)年 洋画部が独立して国画会となり、これを主宰した。

この頃より色彩の鮮やかさを増し、伝統的技法である大和絵琳派俵屋宗達尾形光琳の様式)を取り込みつつ、梅原独自の画境を築き上げた。1934(昭和9)年 鹿児島に行き桜島を見て感動した彼は、かつてイタリア滞在中にヴェスビオ火山を描いたような情熱をもって「桜島」を連作した。このあと鹿児島シリーズは1940年まで続き、桜島のほか霧島などの風景を描いた。風景画と裸婦を中心に、絢爛とした色彩と強靱で濶達な筆致がみられる。
1935(昭和10)年47歳で帝国美術院会員に就任(1957年辞任)。昭和前期には大和絵琳派の伝統的技法も取り入れて、豊潤な色彩の独自の画境を築き、安井曾太郎と並び「梅原・安井時代」と称された。1944〜52年東京美術学校(のち東京芸術大学)教授を務めた。

戦時中は伊豆で富士山などを描いた。戦後も豊麗な色彩と奔放な筆さばきにより風景や静物など描き続け、日本的風土に溶けこんだ西洋画を確立し、日本の洋画のひとつの形を完成させた。軽井沢の風景を好み、浅間山をよく描いた。1953(昭和28)年65歳の時、軽井沢にアトリエを作り、毎年夏にはここに滞在するようになった。また夫人や長女を伴って何度か渡欧しており、1973(昭和48)年85歳の時、日本とフランスの文化交流に貢献したとしてフランスからコマンドール勲章を受けた。夫人が亡くなった後1977年のフランスへの旅が最後の渡欧となった。

梅原の作品は1910年代の頃は、ルノワールに似た柔らかいトーンの作品が多く、やがて1920年代を過ぎると、ゴーギャンなどのような太い線を使用した作品が現れ始め、1940年代になると、独特の繊細さと大胆さが同居したような画風(一瞬クレヨン画のように見える)に進展している。
なお梅原は自分の絵の感覚の刺激のため、師としたルノワールのほかドガピカソ琳派や浮世絵などの作品を多数収集していたが、亡くなる前に全てをあちこちの美術館に寄付した。彼のさっぱりした性格が伺える行為だ。

絵画のような芸術は、その作品からの感動もさることながら、本人の作業現場を見たり話を聞いたりすることにより得るものが多いのは、やはりそのプロセスとか心を知ることで本質に触れることができるのではないか。
会社の仕事においても、深く学ぼうと思えば、結果だけを見るのでなく、そこに至った経過をたどったり、それを成し遂げた考え方を知ることにより、本質がわかり次への展開ができるようになる。


梅原龍三郎の作品
   
   薔薇             脱衣婦            桜島


梅原龍三郎のビデオ
  天に遊ぶわれ?梅原龍三郎? [VHS]


梅原龍三郎の本
  仰ぎ見る富士は永遠(とこしえ) (日本随筆紀行)
  カンヴァス日本の名画 18 梅原竜三郎
  梅原龍三郎 (新潮日本美術文庫)
  私の梅原龍三郎 (文春文庫)
私の梅原龍三郎 (文春文庫)梅原龍三郎 (新潮日本美術文庫)