ぎりぎりのところで   

ハーン

きょうはドイツの物理化学者、核分裂を発見した オットー・ハーン(Otto Hahn)の誕生日だ。
1879年生誕〜1968年逝去(89歳)。

ドイツのフランクフルト アム・マインに生まれた。若い頃から科学に興味をもち、マーブルク大学のチンケ教授に化学を学んだ。兵役に従事した後、チンケ研究室に戻り、有機化学の研究を行った。

1904年25歳の時ロンドンに渡り、ウィリアム・ラムゼー教授の教えにより放射性物質に興味を持った。翌年、カナダ モントリオールのE.ラザフォードの研究室に移り、さらに翌年ドイツに戻り、ベルリン大学のE.フィッシャーの元で、放射性物質の単離の研究を続けた。ここで以後30年以上研究パートナーとなるリーゼ・マイトナー(女性)と出会った。
この間、ラジオトリウム、ラジオアクチニウム、メソトリウムを発見。1912年33歳でカイザー・ウィルヘルム化学研究所の主任研究員となり、1917年、マイトナーと共に、新しい同位元素プロトアクチニウムを発見した。

1913年34歳の時、エディス・ユングハウスと結婚した。
1914年 第一次世界大戦勃発。戦中は、毒ガスの軍事使用に関する技術的研究開発にも従事し、毒ガス部隊を指揮した。
戦後 1921年42歳のとき最初の核異性体の例(ウラニウムZ)を発見。1928年49歳でカイザー・ベルヘルム所長となった。1938年7月、ナチスの台頭によりマイトナーはドイツを去った。

同年12月59歳の時 ハーンはフェルミの研究に感化され、シュトラスマンと、中性子をあてることによりウランに核分裂が起きることを発見し、核分裂生成物を初めて科学的に紹介した。

ドイツの敗戦により1946年67歳の春までイギリスに抑留されたが、同年帰国後 再建されたカイザー・ウィルヘルム協会の総裁に就任。以後1960年までその職についてドイツの物理化学の興隆に力を尽くした。
彼の業績を記念し、ハーン・マイトナー研究所、原子力商船オットー・ハーン号、105番元素ハーニウムにハーンの名前が残されている。

ハーンは、核分裂の発見を発表することを躊躇したようだ。発見の内容はボーアに伝えられ、ボーアはアインシュタイン論議した。アインシュタインアメリカ大統領と連絡を取り、ナチスが原爆を製造する前にアメリカが成功させるよう進言し、原子爆弾製造研究が始まった。

ハーンはイギリスへの抑留中、最初の原子爆弾が広島・長崎に投下されたことを知り、強い衝撃を受けた。帰国後 ハーンは自分の発見した核分裂が軍事的に利用されていることに苦悩し、ドイツの核武装に反対し、核戦争防止のために、マイナウ宣言やゲッティンゲン宣言などの中心メンバーとして活躍。核兵器の使用に反対する科学者の運動にも、重要な役割を果たした。
彼は人類にとってきわめて重大な発見をした。それはまったく新しく、莫大なエネルギー源と、恐ろしい破壊的能力を人類に与えた。

核分裂の発見から70年近くが過ぎようとしているが、人類はいまだにその正しい使い方を模索している状態である。ぎりぎりのところで平衡が保たれているものの、いつ過ちを犯すかわからない状況の中で世界の人々は暮らしている。

企業においても、物理的な力であれ、権力のような力であれ、その使い方を誤ると取り返しのつかないものになる。力を持った人、それを行使できる人は、理性とか人間性という抑止力を持ち合わせた者でなくてはいけない。


ハーンの本
  オットー・ハーン自伝
  アインシュタインの時代―物理学が世界史になる