人の心の底にあるもの
きょうは江戸時代の儒学者、日本陽明学派の祖 中江藤樹(なかえ とうじゅ)の誕生日だ。1608(慶長13)年生誕〜1648(慶安元)年逝去(40歳)。
名:原 げん、字:惟命 これなが、通称:与右衛門 よえもん、号:藤樹
近江国高島郡小川村(現 滋賀県高島郡安曇川(あどがわ)町上小川)の農家に生まれる。父は中江吉次、母は北川氏、子は藤樹のみ。1616(元和2)年8歳で米子藩主加藤貞泰の家臣である祖父 吉長の養子となり転封(てんぽう:大名の領地を他へ移し変えること)で伯耆国に移って文字を習い、めざましい上達を見せた。翌年、加藤家の伊予国大州(現 愛媛県大洲市)への転封に随行した。
1626(寛永3)年18歳で、前年死去した祖父の跡目を相続し、禄100石の郡奉行に任ぜられた。また10歳で禅僧の「論語」講義を聞き、朱子の「四書集註」を注釈した「四書大全」を独学した。
1634(寛永11)年26歳のとき、母への孝養と身体の健康を理由に致仕(ちし:官職を辞すること)を願うが許されず脱藩して近江に帰った。
1638(寛永15)年30歳で居宅に私塾藤樹書院をひらき、初めて門人を取り、武士や近隣の人々を相手に「心の学問」を教え、朱子学と漢方医学を教授しはじめた。このときから居宅の藤の老大樹にちなみ藤樹と号し、藤樹先生と親しまれた。
彼は、礼記にある教えの通り30歳になるまで結婚しなかったが、30歳で高橋久子という女性(17歳)と結婚した。母は、久子の容姿があまりに良くなかったので、帰そうとしたそうだ。しかし、彼は「容貌の美しさは年とともに消えるが、心の美しさは年とともにますます現れる」と彼女を大切にした。実際、久子は、よく気が利きよく働くすばらしい女性で、門人からも大いに慕われ、藤樹とともに尊敬されたそうだ。藤樹は5男2女をもうけた。
1640(寛永17)年32歳で儒教の入門書「翁問答」を著した。この書は無断で出版され、広く流布した。また「王竜溪語録」を読んで陽明学に接近した。1642(寛永19)年34歳で「孝経啓蒙」を著した。1644(寛永21)年36歳のとき「王陽明全書」を読み陽明学に心酔し、のち王陽明の知行合一・致良知説を唱道した。1647(正保4)年39歳で女性教訓書「鑑草(かがみぐさ)」を出版した。
藤樹は日本における陽明学の始祖とされるが、晩年にいたるまで朱子学を否定しなかった。儒教道徳を実践し、身分を越えて農民にも教化、「近江聖人」と称せられた。主著は上記のほか、「論語郷党啓蒙翼伝」「古本大学金解」などがある。
門人に熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)、淵岡山(ふち こうざん)、中川謙叔(なかがわ けんしゅく)、泉仲愛(いずみ ちゅうあい)、中西常慶(なかにし つねよし)らがいる。
藤樹は、母の看病をするため、安定した高級公務員の道を捨て、浪人のような生活から私塾の先生になるのだが、300年以上も前の時代においても、そのような選択が藩にも地域の人にも暖かく迎え入れられているというから、今も昔も人の心の底にあるものはあまり変わっていないということだろう。
企業においても、基本となるのは人であり、人のための経営や、人のための改善をしていくように、日頃から心がけたいものだ。
中江藤樹の教え
〜五事を正す〜
「貌」・・・顔かたち:愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接する。
「言」・・・言葉づかい:相手に気持ちよく受け入れられるような話し方をする。
「視」・・・まなざし:愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにする。
「聴」・・・よく聞く:話す人の気もちに立って相手の話を聞くようにする。
「思」・・・思いやり:愛敬の心をもって相手を理解し思いやりの心をかける。
中江藤樹の本
鑑草 (岩波文庫)
翁問答 (岩波文庫)
中江藤樹 (センチュリーブックス 人と思想 45)
中江藤樹・異形の聖人―ある陽明学者の苦悩と回生
中江藤樹の人間学的研究
中江藤樹の生涯と思想―藤樹学の現代的意義
小説 中江藤樹〈上巻〉(下巻)