晩学だったが   

橘守部

きょうは歌人で平保の国学四大家の一人 橘守部 (たちばな もりべ、幼名:旭敬あさいや、名:吉弥)の誕生日だ。
1781(天明元)年生誕〜1849(嘉永2)年逝去(68歳)。

伊勢国朝明郡小向村(現 三重県三重郡朝日町小向)で生まれた。父の飯田長十郎元親は大庄屋で、国学者 谷川士清の門人だった。守部が2歳のとき生母と生き別れ、12歳のとき家が没落し、四日市の生桑村に引っ越した後、すぐに大坂の従兄のもとに身を寄せた。16歳の時に父と死別し、17歳で江戸に下った。守部の青少年時代は多難で、なかなか勉強する暇もなかったようだ。

20歳を過ぎて学問を志し、漢学者葛西因是の門を叩いた。その後 清水浜臣に学ぶが、ほぼ独学で国学を修得した。1809(文化6)年29歳のとき武蔵幸手(現 玉県幸手市 さって)に移住、以後20年間ここで独学で勉学に励んだ。ここで桐生・足利方面の企業家や豪農を門人として抱え、地方庶民文化の発展と国学の普及に大いに貢献した。3年後32歳のとき地元の豪商 田村清人の娘と結婚した。
1829(文政12)年、49歳で江戸深川大島町に住み、51歳で浅草寺弁天山に移った。国語学書「山彦冊子」で名声を挙げ、以後神学・神典研究、万葉集研究、古典注釈、句格論、語学研究に実績を残した。
60歳を過ぎて、「稜威道別」十二巻を著すなど国学者としてのめざましい業績が伺われるようになった。晩年、肥前平戸藩主松浦氏の知遇を得ることができた。

守部は、同郷の先学 本居宣長が「古事記」重視の立場をとったのに対し、その学説に反対し、「日本書紀」を重視して神話の解釈や古典の研究に独自の説を立てた。そして平田篤胤伴信友・香川景樹と並んで、「天保国学四大家」と称されるまでになった。
著作に「神風問答」「伊勢物語箋」「長歌撰格」「短歌撰格」「文章撰格」「稜威言別」等50冊以上の著作がある。

橘守部は、20歳を過ぎてから学問を志すという、当時としては晩学だったが、江戸時代の国学者として大成した。国学とは、古典を研究することにより、日本固有の生活や精神を理解しようとする学問で、当時の国学界が本居宣長を中心とする学説が主流であったのに対し、守部は宣長の学説を批判し、独自の学説を展開した。

企業においても、後発の場合、あくまで目標はNo.1企業であり、No.1商品である。そのためには何をすればいいか、考え抜かなければいけない。「ほどほどに」とか、「そこそこに」なんて考えていたら、ほどほどにもなれないし、そこそこどころではなくなる場合が多い。


橘守部の本
  先代旧事本紀/旧事紀直日 (続日本古典全集)
  橘守部著作集 第1卷―未刊影印 稜威言別〜10
  橘守部 (人物叢書)