与えられたチャンス   

佐藤春夫

きょうは大正・昭和期の詩人であり小説家の 佐藤春夫の誕生日だ。
1892(明治25)年生誕〜1964(昭和39)年逝去(72歳)。

和歌山県東牟婁郡新宮町(ひがしむろぐんしんぐうちょう、現 新宮市)に医師 佐藤豊太郎の長男として生まれた。生家は下里町で六代続いた懸泉堂という医家で、父の代に新宮に移り、外科病院を開業した。父は狂歌、狂句をよくし、鏡水と号した。

当時木材業で栄えた新宮には医師 大石誠之助、のちに文化学院を創設する西村伊作キリスト教会牧師で作家の沖野岩三郎ら先進的な文化人が活発に活動していて、中央の文学界、思想界ともつながっていた。そうした地域的に恵まれた環境の中で春夫は文学少年として成長した。

新宮第一尋常小学校(現 丹鶴小学校)から新宮高等小学校をへて新宮中学に進んだ。中学時代、文学を志望するが、文学書を読み耽って落第したり、与謝野鉄幹ら一行の文芸講演会の前座講演が問題化し無期停学処分を受けたりするが、かえって春夫の文学志向に一層拍車をかけた。
1910(明治43)年、中学卒業と同時に上京した。
新詩社同人となり、生田長江(いくた ちょうこう)・与謝野寛(よさの ひろし)・永井荷風に師事した。ここで終生の友となる堀口大學を知る。永井荷風慶應義塾文科の教授となったので、堀口とともに慶應義塾大学予科文学部に入るが、1913(大正2)年21歳のとき中退した。

この頃春夫は文学に行き詰まり、油絵に向かった。神経衰弱がひどくなり、1916(大正5)年24歳の時、神奈川県都郡中里村(現 横浜市青葉区鉄町)に犬二匹と同棲相手の女優とともに転居。ここでの生活を題材に、「田園の憂鬱」と「お絹とその兄弟」が生まれる。

在学中から、雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、また1917(大正6)年「西班牙(スペイン)犬の家」を発表してその才能が注目されつつあった。1918(大正7)年26歳のとき、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場、以来「田園の憂鬱」「お絹とその兄弟」「美しき町」などの作品を次々に発表し、たちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う二大作家と目されるようになった。

春夫は、1921(大正10)年29歳のとき、谷崎潤一郎の妻 千代子と恋愛関係となり、谷崎は春夫と妻の恋愛をいったんは許し妻を譲ると約束するが、土壇場で翻意(小田原事件)、春夫は谷崎と絶交した。
春夫は、小川タミと結婚をして、谷崎との交友が復活するが、1930(昭和5)年38歳のとき、タミと離婚した。
同年、春夫と千代子の連名で、千代子が長女 鮎子を伴い離別し春夫に嫁ぐ旨を発表。谷崎は千代子夫人と離婚し三者合意を声明した(細君譲渡事件)。

春夫は、抒情的な優れた詩人であるとともに、鋭い分析力を持った批評家として、文学史論や文芸時評に多くの業績を残した。
1935(昭和10)年43歳のとき、芥川賞設立とともに選考委員になり、以後27年間委員をつとめた。日本浪曼派の面々をはじめとして、多くの後輩から慕われ、「門弟三千人」といわれる。
1938(昭和13)年、従軍作家として武漢作戦に従軍、1943(昭和18)年にはマレー・ジャワに従軍した。

その著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたっている。
春夫は、最も多方面に文学の可能性を探ね、最も実験的な仕事を重ね、最も多彩な作品群を残した人と評されている。紀州の生んだ世界的大学者 南方熊楠と同様に、その全体像を掴むのはきわめてむずかしい作家といえる。

佐藤春夫は、文学に行き詰まったり精神的に落ち込んだりしたときに、転居をしているが、それが気分転換になったり、新しい作品につながったりしている。日本人は定着型が多いと言われるが、昭和初期の人にしては珍しいタイプかもしれない。

企業においても、部署の異動や勤務地の移動は、不本意の場合もあるが与えられたチャンスと考え、気分を一新し頑張るようにすれば、新しい展開が期待できる。
望んでいろんなキャリアを積むほうが、後で考えれば躍進につながっていることが多い。


佐藤春夫のCD
  佐藤春夫わが文学・わが道 () 佐藤春夫わが文学・わが道 (<CD>)

    
  
佐藤春夫の本
  殉情詩集 (愛蔵版詩集シリーズ)
  田園の憂鬱 (新潮文庫)
  春夫詩抄 (岩波文庫)
  晶子曼陀羅 (講談社文芸文庫)
  佐藤春夫 (ちくま日本文学全集)
  佐藤春夫 (新潮日本文学アルバム)
  佐藤春夫作品研究―大正期を中心として
佐藤春夫作品研究―大正期を中心として佐藤春夫 (新潮日本文学アルバム)佐藤春夫 (ちくま日本文学全集)殉情詩集 (愛蔵版詩集シリーズ)