幼き日を過ごした   

川上澄生

きょうは大正から昭和の版画家 川上澄生(かわかみ すみお、本名:澄雄)の誕生日だ。1895(明治28)年生誕〜1972(昭和47)年逝去(77歳)。

横浜市紅葉坂(現 西区紅葉ケ丘)に生まれた。父は川上英一郎、母は小繁で長男だった。当時、父 英一郎は横浜貿易新報という新聞社の主筆だった。しかし、澄生が3歳の時、英一郎は横浜貿易新報を辞任。一家は東京に転居した。1901(明治34)年6歳の時、牛込区富士見小学校に入学。翌年、青山に家を新築したため、青山師範学校附属小学校へ転校した。

11歳のころから、澄生は青山の本屋 赤心社で「少年世界」「少年界」などの雑誌を購読したり、近所の上級生と一緒に麹町の大橋図書館へ通って「十五少年漂流記」や「水彩画のしをり」などを読むような少年だった。
1912(明治45)年3月17歳で、私立青山学院中等科を卒業後、同年4月に同校高等科へ進学、1916(大正5)年 卒業した。高等科時代は、版画に興味を抱く一方で、音楽にも関心をもち、コーラスにうちこんだ。
日本に初めて木口木版技法をパリから移入した合田清の長男 弘一と同級で、しばしば合田家を訪れ、見よう見まねで木版画の制作に取り組んだ。
また、このころから「文章世界」や「秀才文壇」に駒絵を投稿。父に知られぬよう「平峯劉吉」のペンネームを使った。平峯は友人の姓、劉は画家 岸田劉生から借用したものだった。

1917(大正6)年22歳のとき父の勧めでカナダに渡り、シアトル、アラスカを放浪、半年ほど鮭の缶詰の製造人夫として働き、翌年帰国した。いくつかの仕事を体験するが、どれも長くは続かなかった。母校青山学院の恩師に相談し、1921(大正10)年26歳で宇都宮中学校(現 宇都宮高校)に英語の教師として赴任し、以来北海道に疎開した数年を除き宇都宮に居住した。
1927(昭和2)年32歳のとき、日本創作版画協会会員となった。1938(昭和13)年43歳で結婚した。

仕事の傍ら独学した木版画と詩文の創作を続けた。恩知孝四郎らとともに自画自刻自摺の創作版画を提唱した。
代表作「初夏の風」(1926年)は、若き日の棟方志功がこれに感銘を受けて版画を志したというエピソードでも知られている。1970(昭和45)年75歳の時、大阪で開催された万国博覧会の日本民芸館に棟方志功と共に作品2点が展示された。

明治の中ごろ、横浜や東京の山の手で育ったことは、後に芸術家として生きる澄生に大きな影響を与えた。港町の横浜、ハイカラな町の青山は、彼の想像力を海のかなたの国々やその文物へと誘った。後年、澄生は「横浜懐古」「横浜どんたく」「横浜」といった「横浜もの」や「南蛮もの」、そして少年のころに身辺にあった風俗や、ランプなどの文物を題材にした「文明開化もの」は最も好んだテーマで、洋館、南蛮船、時計やランプ、花魁、洋装の女性等々、幼き日を過ごした横浜の印象が作風に強く反映されている。

澄生の作品は、異国情緒となつかしさにあふれ、現在でも多くの人々に親しまれるとともに、日本近代版画史の上でもその独自性が高く評価されている。なかでも手彩色の施された木版画や、それらに文字を加えて一冊の本とした作品などは、一点一点が微妙な違いを見せ、少部数の作品に丹精を込める制作態度と相まって独特の魅力ある世界を形づくっている。

川上澄生は、詩人でもあったため、絵本のように版画と詩を組み合わせた作品をつくっている。これによって作品がわかりやすくなじみやすい。
企業においても、文章だけでなく絵やグラフを使うと、わかりやすくなる。


川上澄生の作品

   
 初夏の風            横浜どんたく        婦人と南蛮船(絶筆)


川上澄生の本
  川上澄生全集 第1巻 ゑげれすいろは詩画集 他四篇 (中公文庫)〜第14巻
  川上澄生 詩と絵の世界
  木版の詩人 川上澄生と北海道
  評伝 川上澄生―かぜとなりたや
木版の詩人 川上澄生と北海道