新しいものに鈍感である   

鈴木梅太郎

きょうは農芸化学者でビタミンB1を発見した 鈴木梅太郎の誕生日だ。
1874(明治7)年生誕〜1943(昭和18)年逝去(69歳)。

静岡県榛原郡堀野新田村(現 相良町堀野新田)の農家に生まれた。向学心に燃える少年で、小学校卒業後、14歳の時に単身徒歩で上京した。1896(明治29)年、東京帝国大学農科大学農芸化学科を首席で卒業。同大学院で植物生理化学を研究した。

1900(明治33)年26歳で東大助教授に就任、翌1901(明治34)年にはクワの萎縮病に関する研究で農学博士となった。同年、文部省留学生としてスイス、ドイツに留学しベルリン大学で生化学者エミール・フィッシャーに師事して蛋白質アミノ酸を研究した。

帰国に際して、フィッシャーから「日本でしかできないようなテーマで研究するべきだ」との助言を得、また留学中に日本人と欧米人の体格の違いを実感したのをきっかけに、日本人の主食であるコメを生涯の研究対象にするを決意した。帰国後、1906(明治39)年32歳で盛岡高等農林学校教授、翌1907(明治40)年に東京帝国大学農学部教授となり、日本の特産品の化学的研究を行った。
栄養化学的研究と脚気(かっけ:白米病)治療の有効成分の研究を中心にすすめ、1910(明治43)年36歳の時、コメ糠(ぬか)から脚気(かっけ)の治療に有効な微量成分を分離し、コメの学名 オリザ・サティバにちなんで「オリザニン」(現在のビタミンB1)と名づけ、それが栄養化学的観点からも副栄養素的な役割があることを示した。その結果は、ビタミンの世界的な同時発見の一翼を担うこととなった。

脚気は、ビタミンB1の欠乏症であり、末梢神経を冒して手足が麻痺し、むくんできて手足のしびれ感や全身の倦怠感に陥る。ひどくなると、心臓の一部が肥大して死に至る恐ろしい病気である。当時、西洋人にはほとんど無く、日本人に患者が多かった。特に日本では陸海軍の兵士に脚気患者が多く、また、地方から上京した者が多数脚気にかかり、死亡する者も少なくなかった。

元禄時代には、脚気は「江戸わずらい」と呼ばれ、江戸特有の風土病として恐れられていた。貧しい農民たちは雑穀を主食にしていたのに対し、江戸の人々は白米を主食にしていたため、玄米で食べればとれるビタミンB1が、糠をそぎ落とした白米を食べるだけでは十分にとれなかった。

発見当初、日本医学界は農学科学者であった鈴木博士の世紀の大発見を認めず無視した。当時の日本では、脚気は伝染病という見方が有力だった。また、そのころ脚気の病原菌が発見されたという誤報もあった。
911年、製薬会社 三共の創業者 塩原又策が「オリザニン」の発売を開始するが、医学界の風当たりが悪く売れ行きは低迷した。

兵士の多くが脚気にかかり軍の存亡にも関わる危機のなか、「海軍」医務局長が、西欧と日本の違いは食事にあるとして、白米ではなく麦飯を中心とした食事をとれば脚気にかからないことを証明したため、海軍では脚気患者が激減した。
しかし、ドイツの細菌学を中心とした「陸軍」軍医の上層部は納得せず、食事の改善などで病気が治るはずがないと考え、麦飯導入に反対し、多くの陸軍兵士が脚気で亡くなった。

このような状態の中、イギリスの研究所でポーランド出身の化学者カシミール・フンクが「オリザニン」と同じ物質を抽出し、生命(ビタ)に不可欠な有機化合物(アミン)という意昧で「ビタミン」と名付け、その発見の栄誉はフンクに与えられた。
これを機に欧米諸国でビタミン研究が活発になると、日本における鈴木博士の発見も再評価され始めた。この頃から日本では「オリザニン」の効果により脚気衝心は急速に減少していった。

鈴木博士は、1917(大正6)年43歳のとき、理化学研究所創設に参加した。特に応用学的な研究を中心になって進め、ビタミンAや合成酒など数多くの商品を開発、発明し、国民生活に直結した農芸化学・生物化学の発展に貢献した。
1940(昭和15)年から1944年の間は満州の大陸科学院院長も兼任した。

鈴木梅太郎は、世界的な発見をしたにもかかわらず、その当時、日本では所属する分野が違っていたことと科学レベルが低かったので無視され、世界的にも評価されなかった。
日本人は仲間意識が強く、新しいものに鈍感であるため、よそ者や変わった考え方は受け入れようとしない傾向がある。それは現代でも少なからず引きずっていて、考え方が保守的だ。

企業においても同様であり、革新とか改革とか言う反面、リスクが大きいとか時期尚早であるとかで、タイミングを逃している優れたアイデアも多いはずだ。


鈴木梅太郎に関する本
  激動期の理化学研究所 人間風景―鈴木梅太郎と薮田貞治郎
  研究の回顧―伝記・鈴木梅太郎 (伝記叢書 (315))
  ビタミンB1のすべて