自己の積極的見解を介入

平田篤胤

きょうは古代日本の純粋な神道を追求した国学者 平田篤胤(ひらた あつたね、通称:正吉)の誕生日だ。
1776(安永5)年生誕〜1843(天保14)年逝去(67歳)。

出羽国秋田佐竹藩(現 秋田県秋田市)久保田城下の禄高100石の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(さちたね)の四男として生まれる。不幸な幼年期で、父親からは、頭が悪く落ちこぼれと見なされ、雑用をさせられていた。1795(寛政7)年20歳になったばかりで郷土を出奔し江戸に出た。

脱藩し無一文同然で江戸に出た篤胤は、生活難と戦いながら、勉学に勤めた。山崎闇斎(やまざき あんさい)や浅見絅斎(あさみ けいさい)の流れを汲む中山青我に漢籍を学び、国学を修めて古道研究の端を開いた。1800(寛政12)年24歳の時、備中松山藩藩士で代々江戸在住の山鹿流兵学者 平田藤兵衛篤穏(あつやす)の養子となり、藩主 板倉家に仕えた。翌年には織瀬と結婚した。
本居宣長歿後2年の1803(享和2)年まで、篤胤は宣長の著作は勿論、名前すら知らなかった。それにも構わず、「没後の門人」として独学で宣長の道を追った。
33歳のとき神祇伯(じんぎはく:律令制神祇官の長官)白川家より神道教授、吉田家より学師の職を受けた。没年に至るまで、該博(がいはく:学識の広いこと)の学殖(深い学識)と絶倫の精力をもって著述に従った。

1811(文化8)年35歳の時、江戸から駿府の柴崎直古に招かれた。直古の家の奥座敷で、夜も昼も本を読み筆を走らせ、食事も机の上で済ます有様だった。門人たちが心配し「せめて、夜くらいは布団に横になってお休みください」と申し出た。篤胤は「しからば、しばらく眠ろう」と布団に入ると高いびきで一日二晩眠り続け、起きるとまた、机に向かって筆を走らせた。

本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合(しゅうごう:異なる教義などを折衷すること)した神道を批判し、その思想は後の神仏分離廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を廃し釈迦の教えを棄却する意で、明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動)へと結びついていった。

1813(文化10)年著の「霊能真柱(たまのみはしら)」以後、死後の霊は大国主命が主宰する幽冥(ゆうめい:死後の世界、冥土)に行くとする「死後安心論」を展開、宗教化して儒・道・洋の知識を用いて古伝説を再編、文献研究を超えた独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。
「平田新道」と呼ばれることもあった。

異界に大きな興味を示し、死後の魂の救済をその学説の中心に据えた。また、篤胤の独自の宗教観に基づき、当時としては珍しく仏教・儒教道教蘭学キリスト教など、さまざまな宗教も進んで研究分析、ラテン語の教養まであった。宣長学に比べて著しく宗教的神秘的色彩が濃厚であった。

国学の宗教的側面、すなわち神道へ最終的に辿りついたのは自然な流れであり、驚くべき結論を導き出した。それは「この地球上、日本こそが唯一無二の神の国であり、儒教・仏教・キリスト教神道から派生したものに過ぎない」とする『狂信的日本至上主義』であり、「地球上最上の神の子孫である天皇に絶対的忠誠を誓う」というものであった。

神官・豪農を中心として五百名を超す門人がいたが、晩年は幕府から譴責(けんせき:厳しくとがめること)を受けるなど不遇だった。そして激しい儒教批判と尊王思想のため幕府の忌むところとなり、1843(天保14)年、秋田へ追放され病死した。
幕末期の尊皇攘夷運動に大きな影響を与え、近代では国家神道を支えるものとして宣揚(せんよう:広く世の中にはっきりと示すこと)された。

篤胤の学説は、学者にのみ向けられたのではなく、庶民にも向けられた。一般大衆向けの著作を記し、町人・豪農層の支持を得て、国学思想の普及に貢献した。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的な志向を示す彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。

篤胤は自らの学問を「古道学」ないしは「皇国学」と称した。古道とは、彼によれば「古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、『古道学』と申すでござる」

彼の一生は、儒教・仏教・神道諸派等とのはげしい闘争に終始したが、このことは自ずからまた彼の「古道論」をして、戦闘的実践的性格を付与することとなった。この側面こそが、彼の「篤胤学」をして、宣長とちがって一つの政治的社会的力たらしめた所以なのであるが、しかし同時に、それは国学が持っていた最大の武器としての文献的実証的精神の犠牲においてのみ可能であった。

しかも一般に古伝説の解釈にあたっても、宣長に於てはあくまで記紀の記載に忠実に、論理的に明快ならざるところは不明瞭のままに理解したが、篤胤はそこに大胆に自己の積極的見解を介入させて、これを一個の完結した神学体系に構成しようとした。

国学を、教えに対する「実事の学」として特質づけ、荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人(うし)に位置付けられ、日本の神道界・国学界に多大の影響を与えた。『古道大意』『古史伝』『古史成文』『霊能真柱』『古史徴開題紀』『神字日文伝』等百部千巻に近い著作がある。

平田篤胤は、頑固で自己主張が激しく、「眼中人なし」という趣のたいへんな自信家だった。また本居宣長の名前をうまく利用した自己PRはしたたかである。しかし、誰にも分かりやすく自説を説明し、勉学を求めなかった点が、身分や年齢を問わず多数の人々をひきつけ、感銘を与え、一世を風靡(ふうび)した。そして明治維新の思想的原動力ともいわれるようになった。

企業においても、どんなに難しい内容であってもわかりやすく簡潔に説明することが必要だ。そのためには自分が十分理解しておくことが重要であり、原案の作成時間より説明の準備に費やす時間の方が多くかかる場合もある。

国学国学は、儒教や仏教など外国からもたらされた価値観を一切排除し、純粋な日本文化の復活を主張するもので、江戸期から興った新しい学問分野である。

国学には二つの大きな流れがある。一つは、「古事記」「日本書紀」(いわゆる記紀)「万葉集」など古文献を研究対象として、純粋な日本思想の発掘と復古を目指したもので、加茂真淵(かもの まぶち)、本居宣長などがその代表。
もう一つは、このような日本の古典を研究しつつ、古代からの神道思想の体現に、より深いエネルギーを傾注した人たちで、山崎闇斎そして平田篤胤などがこの学派にあたる。

平田篤胤の本
  仙境異聞・勝五郎再生記聞 (岩波文庫)
  古史徴開題記 (岩波文庫)
  霊の真柱 (岩波文庫)
  よみがえるカリスマ平田篤胤
  平田篤胤の世界

平田篤胤の世界よみがえるカリスマ平田篤胤仙境異聞・勝五郎再生記聞 (岩波文庫)