果断にして堅実

池田成彬

きょうは三井の大番頭で第14代日銀総裁 池田成彬(いけだ せいひん)の誕生日だ。
1867(慶応2)年生誕〜1950(昭和25)年逝去(82歳)。

米沢藩(現 山形県米沢市)の藩士 池田成章の長男として生まれた。慶応義塾大学在学中に、ハーバード大学に留学し、1895(明治28)年28歳のとき卒業した。

帰国後、「時事新報」の論説委員から中上川彦次郎時代の「三井銀行」に転じ、営業部長在任中にコール資金の活用により日本銀行貸出への過度の依存を改めるなど同行の近代化に力を注いだ。
1919(大正8)年52歳の時、事実上の同行トップである筆頭の常務取締役になり、三井銀行株式の公開を推し進めた。
池田は、東京手形交換所理事長、三井信託株式会社代表取締役日本銀行参与なども兼任した。
また、1932(昭和7)年3月65歳の時、団琢磨の死により三井合名会社の常務理事、三井財閥の最高指導者となった。

そして、三井の改革を断行し、「三井の大番頭」と呼ばれた。三井家の人々を経営の第一線から退かせて、大規模な社会事業への献金を行った。
そして1936(昭和11)年69歳のとき、自らが唱えた定年制に従い三井合名会社常務理事を辞し、引退した。二・二六事件の前、右翼からの情報入手のため北一輝に金を与えていたこと、憲兵隊の取調べを受けたことも一因であった。

その後、1937(昭和12)年2月9日、当時の蔵相であった結城豊太郎氏から誘われて第14代「日本銀行総裁」に就任した。金融面でも戦時色が強まる中で、産業金融に踏み込まざるを得なかった。

組織面では、それまで諮問機関であった参与制度を廃止して議決権を持った参与理事制度を創設し金融政策を外部からチェックする仕組みを導入したほか、人事部を新設するなど、矢継ぎ早に経営改革を実施した。
その行動果断にして堅実であった。

しかし、病のため日銀総裁在任僅か5ヵ月で辞任した。これまでの日銀総裁には民間出身の総裁が何名かいるが、純粋の都銀出身者ということでは数少ないうちの一人だった。

その後、1938(昭和13)年5月には第一次近衛内閣の大蔵大臣兼商工大臣を務め、国家総動員法にある利潤統制条項について陸軍と対立した。阿部信行内閣の後継首相と目されたこともあった。さらに、1941(昭和16)年には内閣参議・枢密顧問官に任ぜられ、政財界で活躍した。

1945年12月A級戦犯容疑者に指定されたが、翌年5月に解除された。追放解除後は吉田茂の相談役でもあった。1950(昭和25)年10月9日逝去。

池田成彬は、三井銀行日本銀行、政界とそれぞれ大改革を行っている。それはどれも大胆なものだが、終戦前後という微妙な時期に自分の生命をかけたものであったようだ。

企業においても、改革の必要性はわかっていても、現状維持派が多い中で実行するためには、ある面では自分の将来を左右するものがあり、なかなか一歩が踏み出せないものだ。
しかし、その一歩を踏み出した人たちによって歴史は刻まれている。


池田成彬の本
  池田成彬伝
  日中戦争期における経済と政治―近衛文麿と池田成彬
  財界の政治経済史―井上準之助・郷誠之助・池田成彬の時代
  無から始めた男たち―20世紀日本の経済人セレクション
無から始めた男たち―20世紀日本の経済人セレクション財界の政治経済史―井上準之助・郷誠之助・池田成彬の時代